町内の運動会はコロナで3年連続中止になった。
更に公民館の建設資金積み立てのため、運動会は当面やらないことに決まった。
その代わりに輪投げ大会を年間二回やる事になった。
運動会の時は『体育委員』なる16名が躍動する。
私が初めて参加した40年くらい前、町内の大イベントだった。
朝から3時頃まで、8組対抗の綱引きで盛り上がる。
最後は勿論、リレーで最高潮に達する。
優勝するために各組は運動会の前に色々と練習を重ねた。
そこまでして、楽しんだ。
しかし、私が体育委員になった25年ほど前から様子が変わってきた。
最初の体育委員の時は年寄りでも出来る種目の要望があった。
次の体育委員の時は拘束時間が長すぎるとして午前中に終わるようになった。
新種目を作ったり、内容の大幅な見直しをして住民の要望を受容れた。
これらは運動会に対する住民そのものや社会の変化が影響していた。
個人が大切にされ、群れを作っていた生活が変わった。
遊ぶところが増えて、運動会その物の魅力が薄れた。
そうして遂に運動会は要らないという意見も出るようになる。
これは自然な成り行きであるから、運動会その物が変化すべきだろう。
運動会の意義は何だったのだろうか。
昔は住民の楽しみだった。
と同時に住民同士の触れ合いの場でもあったと思うのだ。
住民の顔が知れ、同じ目標を持つことで一体感も生まれた。
しかし、核家族化に始まり趣味の多様化により運動会は嫌われ始める。
好きでも無いことに時間を奪われるのを嫌ったのだろうか。
触れ合いそのものを否定する人も現れる。
そうした心の変化は体育委員の考えも蝕み始めた。
今、世の中は『ふれあい』を推し進めようとしている。
個人主義が進みすぎて、人同士の繋がりが希薄になった。
その結果として一人住まいが増え、孤独死が目立つようになった。
こうした社会現象に対して自治体が『ふれあい事業』を呼びかけているのだ。
けれども住民の心は一朝一夕に変化しない。
『ふれあい』は欲しいが、『わたしの生活』は変えたくない。
運動会が輪投げ大会に変わったからと言って、大きな変化は望めないだろう。
大会運営には一部の人の犠牲が伴う。
体育委員は企画・運営・報告に多くの時間を割かれる。
ボランティアで、好きでも無いことに何故時間を使わなければならないのか。
その気持ちが『責任を持てない』という言葉で否定に走る。
『得られる物が無い』と否定出来うることだと唱える。
最後は『コロナはまだ終わっていない』