3/17(金)にシネ・ウインドで3本連続で映画を観てきたので、感想を書いていきます。
1本目はこちら、佐藤太監督の「太陽の蓋」です。
予告編はこんな感じです。
この映画、軽くあらすじを紹介しますと、東日本大震災が発生した当時の首相官邸やマスコミ、福島に暮らす人々の暮らしなどを、一人の新聞記者を主人公に、リアルに描いていくという意欲作です。
当時の内閣総理大臣・菅直人や、内閣官房長官・枝野幸男をはじめとする官邸関係者が実名で登場したりと、まるでドキュメンタリーのようなリアルな描写がとても印象的でした。
災害発生時の首相官邸をまるでドキュメンタリーかのようにリアルに描いた映画と言えば、昨年のヒット作「シン・ゴジラ」が思い出されますが、当たり前ですがあれはゴジラという架空の怪獣が登場する完全なるフィクションなのです。
また、「シン・ゴジラ」におけるゴジラは、災害や戦争のメタファーであるという見方も出来ますが、じゃあ仮にゴジラのような災害が実際に発生したとして、あの映画のように日本政府が対応できるのかと言われれば、決してそうとは言い切れないから、やっぱりあの映画の特に後半の展開は、ある意味、日本人の理想や希望をフィクションの中で描いた、あくまでエンターテインメント映画だなと思います。
「シン・ゴジラ」は、前半の絶望的なゴジラによる災害描写と、後半のあくまでフィクションだけど「これならあり得るかも…(ゴジラに勝てるかも…!)」というギリギリ観客が希望を感じられるような脚本が本当に優れていた映画だと思っているので、確かに社会派な一面もありますが、基本的には完全なるエンターテインメント映画だと僕は思っています。。
また、「シン・ゴジラ」について「リアル」という印象を持つ人も多いと思いますが、しかしそれは現実の再現映像という意味での「リアルさ」とはまったく違って、絶対あり得ないフィクションの出来事なのだけれど、あくまであの映画を見ている時だけはまるで現実であるかのように感じさせてくれるという意味での「フィクションの中でのリアルさ」さであり、それはひとえに脚本や演出や映像表現が本当に優れていたからに他ならないと思うのです。
突然「シン・ゴジラ」の思い出を書いたのは、今回「太陽の蓋」を語る上でどうしても「シン・ゴジラ」と比較せずにはいられないような映画だったからです。
僕が「シン・ゴジラ」を観た時、前半のゴジラ上陸のシーンで、どうしても東日本大震災の津波を思い出さずにいられないシーンがガッツリと登場し、完全に日本人としてのトラウマを深く刺激されてしまったのですが、ただあの映画はあくまでフィクションでありエンターテインメントとして描いているから、トラウマのような映像であっても普通に楽しみながら直視することが出来て、あらためて映画、というかエンターテインメントというものは、人間を動かす力があるんだなと痛感しました。
一方それに対し、「太陽の蓋」が描いているのは、僕ら日本人が6年前に現実に実際に体験した東日本大震災そのものであり、政府関係者、マスコミ、被災者の人達の様子を、「シン・ゴジラ」のような「フィクションの中でのリアルさ」ではなく、本当に「こういうことがあったよなあ…」あるいは「こんなことが起きていたのか…」という肌身に迫るようなリアルさなのです。
震災発生時の、どのタイミングでどういう余震が発生したのか、どのタイミングで原発事故が発生したのか、その情報がどういう状況で伝わり、そしてそれに対して政府はどういう対応をしていたのか、被災地では、原発では、何が起こっていたのか、それらを現実の記録に忠実に再現していたので、被災はしていないにせよ、そういうニュースを6年前にリアルタイムで実際に毎日目にしていた自分にとって、「シン・ゴジラ」の何倍もトラウマを刺激されましたし、震災の恐ろしさも「リアル」に感じました…何しろ、本当に6年前に体験していることだからです。
震災発生時の政府官邸や、マスコミや、被災被災地や、原発での人々の描写の一つ一つから伝わってくるのは、完全に予想外の震災という災害を体験していた人達の、「本当にどうしたらいいのか誰も分からない」という出口の見えない闇に閉じ込められたような感覚であり、それは、例えば被災者でも何でもない僕自身も毎日テレビやネットのニュースを見ながら感じていた気持ちでした。
そして当たり前ですが、そこには「シン・ゴジラ」に登場する「ヤシオリ作戦」のようなはっきりとした解決策は何も存在せずに、ただただ被害が拡大していってしまったという無力感が、東日本大震災の時に日本人が現実に感じた気持ちだったと思うのです。
政府関係者も、マスコミも、原発作業員も、被災者も、そしてそれをテレビで見ているすべての日本人も、誰一人として、「何をどうすればいいか分からない」、そして「何が正しいのか、どの情報を信じればいいのか分からない」、しかし被害だけは拡大していってしまう、というあの時の絶望的な気持ちは、被災者だけでなく、当時の日本人が共通して感じていたものだと思うのですが、その空気が、そのまま映画の中に再現されていたなあと思います。
そもそも「シン・ゴジラ」に比べれば一つ一つの映像表現の作り込みにもそこまで予算を使っていない映画だと思いますし、だからこそ、震災や津波や原発事故の災害映画としての映像表現はまったく登場しないのですが、「シン・ゴジラ」のような「フィクションの中でのリアルさ」「映像表現による災害描写」ではなく、実際に起きた震災と、その時の日本の空気を再体験できるような、そんな映画だったなあと思います。
だからこそ、この映画を観た時は、本当に震災を思い出して物凄くトラウマを刺激されたし、観終わった後も希望が示されるわけではまったくなく、映画館を出ると物凄く疲れたんですけど、とは言えこの映画、僕は観て良かったと思いますし、すごく評価したいと思います。
何故なら、恐ろしいことに人間はどんな恐怖を体験しようといずれ忘れていってしまう生き物であり、やがては震災の体験者を語る人もいなくなってしまうので、そうなる前に、当時の出来事を記録していくことには、絶対に意味があると思うのです。
また、ただデータとして保存するだけでなく、こうして映画になることで、当時の日本人の感覚をそのまま伝えていくことも出来ると思うので、やがて震災体験を語り継ぐ日本人がいなくなった後であっても、その時の感覚を再体験できるのではないかと思います。
と言う訳で、公開規模だとか話題性だとか観客動員数だとか興行収入だとかで考えると「シン・ゴジラ」に比べれば物凄く地味な映画だとは思いますが、日本の未来に残したい一本だなと思いました!
1本目はこちら、佐藤太監督の「太陽の蓋」です。
予告編はこんな感じです。
この映画、軽くあらすじを紹介しますと、東日本大震災が発生した当時の首相官邸やマスコミ、福島に暮らす人々の暮らしなどを、一人の新聞記者を主人公に、リアルに描いていくという意欲作です。
当時の内閣総理大臣・菅直人や、内閣官房長官・枝野幸男をはじめとする官邸関係者が実名で登場したりと、まるでドキュメンタリーのようなリアルな描写がとても印象的でした。
災害発生時の首相官邸をまるでドキュメンタリーかのようにリアルに描いた映画と言えば、昨年のヒット作「シン・ゴジラ」が思い出されますが、当たり前ですがあれはゴジラという架空の怪獣が登場する完全なるフィクションなのです。
また、「シン・ゴジラ」におけるゴジラは、災害や戦争のメタファーであるという見方も出来ますが、じゃあ仮にゴジラのような災害が実際に発生したとして、あの映画のように日本政府が対応できるのかと言われれば、決してそうとは言い切れないから、やっぱりあの映画の特に後半の展開は、ある意味、日本人の理想や希望をフィクションの中で描いた、あくまでエンターテインメント映画だなと思います。
「シン・ゴジラ」は、前半の絶望的なゴジラによる災害描写と、後半のあくまでフィクションだけど「これならあり得るかも…(ゴジラに勝てるかも…!)」というギリギリ観客が希望を感じられるような脚本が本当に優れていた映画だと思っているので、確かに社会派な一面もありますが、基本的には完全なるエンターテインメント映画だと僕は思っています。。
また、「シン・ゴジラ」について「リアル」という印象を持つ人も多いと思いますが、しかしそれは現実の再現映像という意味での「リアルさ」とはまったく違って、絶対あり得ないフィクションの出来事なのだけれど、あくまであの映画を見ている時だけはまるで現実であるかのように感じさせてくれるという意味での「フィクションの中でのリアルさ」さであり、それはひとえに脚本や演出や映像表現が本当に優れていたからに他ならないと思うのです。
突然「シン・ゴジラ」の思い出を書いたのは、今回「太陽の蓋」を語る上でどうしても「シン・ゴジラ」と比較せずにはいられないような映画だったからです。
僕が「シン・ゴジラ」を観た時、前半のゴジラ上陸のシーンで、どうしても東日本大震災の津波を思い出さずにいられないシーンがガッツリと登場し、完全に日本人としてのトラウマを深く刺激されてしまったのですが、ただあの映画はあくまでフィクションでありエンターテインメントとして描いているから、トラウマのような映像であっても普通に楽しみながら直視することが出来て、あらためて映画、というかエンターテインメントというものは、人間を動かす力があるんだなと痛感しました。
一方それに対し、「太陽の蓋」が描いているのは、僕ら日本人が6年前に現実に実際に体験した東日本大震災そのものであり、政府関係者、マスコミ、被災者の人達の様子を、「シン・ゴジラ」のような「フィクションの中でのリアルさ」ではなく、本当に「こういうことがあったよなあ…」あるいは「こんなことが起きていたのか…」という肌身に迫るようなリアルさなのです。
震災発生時の、どのタイミングでどういう余震が発生したのか、どのタイミングで原発事故が発生したのか、その情報がどういう状況で伝わり、そしてそれに対して政府はどういう対応をしていたのか、被災地では、原発では、何が起こっていたのか、それらを現実の記録に忠実に再現していたので、被災はしていないにせよ、そういうニュースを6年前にリアルタイムで実際に毎日目にしていた自分にとって、「シン・ゴジラ」の何倍もトラウマを刺激されましたし、震災の恐ろしさも「リアル」に感じました…何しろ、本当に6年前に体験していることだからです。
震災発生時の政府官邸や、マスコミや、被災被災地や、原発での人々の描写の一つ一つから伝わってくるのは、完全に予想外の震災という災害を体験していた人達の、「本当にどうしたらいいのか誰も分からない」という出口の見えない闇に閉じ込められたような感覚であり、それは、例えば被災者でも何でもない僕自身も毎日テレビやネットのニュースを見ながら感じていた気持ちでした。
そして当たり前ですが、そこには「シン・ゴジラ」に登場する「ヤシオリ作戦」のようなはっきりとした解決策は何も存在せずに、ただただ被害が拡大していってしまったという無力感が、東日本大震災の時に日本人が現実に感じた気持ちだったと思うのです。
政府関係者も、マスコミも、原発作業員も、被災者も、そしてそれをテレビで見ているすべての日本人も、誰一人として、「何をどうすればいいか分からない」、そして「何が正しいのか、どの情報を信じればいいのか分からない」、しかし被害だけは拡大していってしまう、というあの時の絶望的な気持ちは、被災者だけでなく、当時の日本人が共通して感じていたものだと思うのですが、その空気が、そのまま映画の中に再現されていたなあと思います。
そもそも「シン・ゴジラ」に比べれば一つ一つの映像表現の作り込みにもそこまで予算を使っていない映画だと思いますし、だからこそ、震災や津波や原発事故の災害映画としての映像表現はまったく登場しないのですが、「シン・ゴジラ」のような「フィクションの中でのリアルさ」「映像表現による災害描写」ではなく、実際に起きた震災と、その時の日本の空気を再体験できるような、そんな映画だったなあと思います。
だからこそ、この映画を観た時は、本当に震災を思い出して物凄くトラウマを刺激されたし、観終わった後も希望が示されるわけではまったくなく、映画館を出ると物凄く疲れたんですけど、とは言えこの映画、僕は観て良かったと思いますし、すごく評価したいと思います。
何故なら、恐ろしいことに人間はどんな恐怖を体験しようといずれ忘れていってしまう生き物であり、やがては震災の体験者を語る人もいなくなってしまうので、そうなる前に、当時の出来事を記録していくことには、絶対に意味があると思うのです。
また、ただデータとして保存するだけでなく、こうして映画になることで、当時の日本人の感覚をそのまま伝えていくことも出来ると思うので、やがて震災体験を語り継ぐ日本人がいなくなった後であっても、その時の感覚を再体験できるのではないかと思います。
と言う訳で、公開規模だとか話題性だとか観客動員数だとか興行収入だとかで考えると「シン・ゴジラ」に比べれば物凄く地味な映画だとは思いますが、日本の未来に残したい一本だなと思いました!