池田先生に刻していただいた印のセットが届きました。
袴を付けた状態でケース入り。
印譜も同封されていました。
上から
姓名印
雅号印
冠帽印
です。
冠帽印は『玄又玄』と刻していただきました。
老子の言うところでは、『森羅万象の生まれ出ずる処』を『玄』と言い、その『玄』のさらに奥にある『玄』に、全てのものを次々と生み出すエネルギーがあるとしています。
『玄』は『漆黒』や『ブラックホール』をわたしにイメージさせてくれます。
そしてそれはそのまま『墨』につながり、書の求める『道』のたどり着くところが『玄のさらに奥にある玄』のような気がしてならないのです。
20年以上前に、早稲田大学の書道講座でこの言葉に出会った時の衝撃は今でも忘れることはできません。
老子の言葉は難解です。
なので、実践に当てはめて身をもって体験する事にしたのです。
書を志し、経営を志すところに、日々この言葉を頭に思い浮かべながら体験しながら生きてきました。
文言だけでは難解であっても、それぞれの立場に置き換えて体験すれば、『あ、、』となる事もしばしばあるものです。
それが老子の言うところと多少違ってはいても、目指すところさえ間違わなければなんとかなるのではないでしょうか(笑)
私、楽観的なのです。
昔の私は、辿り着くべき目的地は、山の頂上にあると考えていました。
最近では違うように思えてきました。
山に登るには苦難が伴います。
それは修行にも似ています。
辿り着くのに特別な修行が必要なら、全ての人が救われることなんてできません。
それは大乗仏教とは違うように思うのです。
例えば、奈良の大仏をご覧になったことはありますか?
そう、東大寺にある奈良の大仏です。
その大仏がいらっしゃる建物が大仏殿です。
入口の門を入るとまず見えるのがこの景色です。
立派な大仏殿が見えます。
歩けばすぐに行けそうに思うのですが、道幅も大きく以外に距離があるのです。
真っ直ぐに歩いて行けばよいものを、なんとなくダラダラと蛇行して歩きたくなる感じ(笑)
これが人生なのではないでしょうか。
大仏殿が見え、その中に大仏がいらっしゃることは知っているし、一目見たくて歩いているのだけれど、色々と楽しい事もあって(笑)、右に左に寄り道をしながら歩くことになる。
それでも歩いていれば前には進むし、目的地に辿り着ける。
生きていることが修行であるとすれば、生きとし生けるものはすべからく目的地に辿り着くことができると思うのです。
特別な修行は要らず、楽しく日々生きていれば、その終焉の時に必ずたどり着けるシステムが、私の考える大乗仏教です。
なんちゃってシステムです(笑)
ですから人はそれぞれが思うままに好きなことをやって生きるのが自然なことであって、知らず識らずのうちにその流れに乗って、生まれ出ずる『玄』のまた奥の『玄』に辿り着くことができるように思えるのです。
だとしたら大いなる楽しみが残っていることになりますね〜
死がその入口だとすれば、それが来るまでは自由に楽しく好きなことをして命を全うするように生きればよいのです。
我慢なんてする必要はないのです。
若い人に言いたいのは、
楽しめる事を見つけなさい。
楽しい事を見つけたら、それを生業としなさい。
そうすれば一生幸せでいられますよ。
それが『玄又玄』の真理に辿り着く楽しい修行なのです。
生活も仕事も修行も、楽しくなくっちゃいけませんよ。
日々楽しんで生きましょう!