るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・長期占拠中はだれてくるが、神官はやはり違った

2021-04-04 11:50:51 | 日記
蜂起とは占拠である。日常業務を放棄して要地を占拠することは、水戸では民衆蜂起のスタイルとして定着していた。水戸藩とスローガンを共にする抗議行動なのだ。井伊直弼から見れば水戸陰謀の大衆的表れ以外の何物でもない。幕府に対する藩をあげての水戸の叛乱である

ところで水戸街道にあふれでた民衆は長期の占拠中何をしていたのだろう

長期占拠となれば内部秩序が要請される。農民などは仔細わからず出立してきた者が過半数なので「何のためにこうして押出して来たのか訳がわからぬ」と囁き合う

藩士も退屈で宿で剣術をしたり、囲碁や将棋で暇を過ごす。中には酒食遊興にひたる者、賭け事をする者さえでてくる

誰もが日数が経過すると拍子が抜け、気力も減少し、病人が出て死亡者も出てくる

一方神官は蜂起の初めから終いまで占拠を続けた者たちだ
■神官の活動概要
【滞留1ヶ月後6月16日に1日限りで出歩く許可が出た
※間道を抜けて江戸に潜行。激派の関鉄之助と密談
※船で横浜に出て異人たちを見物
※代表25人を選んで江戸へ潜行、水戸藩に干渉している高松藩主邸に押しかけて勅書回達・藩主父子の無実の罪を嘆願
※八幡宿まで行き気勢を上げる

水戸城下には10月6日に帰った


水戸藩・神官と農民中心に水戸街道を江戸へ向かう

2021-04-04 11:03:29 | 日記
安政6年4月24日
水戸藩
安島帯刀・芽根伊予之介・鮎沢伊大夫ら五名を、幕府は慣行を無視し御三家水戸藩を飛び越し、幕府の直接命令にて出頭命令、勾留、尋問された。こうなれば藩内の動揺は押さえられない。5月から第二次の水戸街道蜂起が始まった

最初に走り出したのは神官たちと農民だ。水戸藩は伝統的に神道を重んじてきたし、斉昭による廃仏棄釈まがいの改革もあって、神官は【水戸領七連】という結社に結集している

小川・玉造では農兵の組織化と軍事訓練が行われてきた

5月3日、神官80人余りが南上開始
翌4日、農村から農兵らが城下へ集まり、11日まで農民たちで城下は大混雑。当時の習いとして村ごとの割当て動員もあった。そして南上。仔細も心得ず、ただ大勢の赴くまま南へ南へと足を向ける。街道は数千人を越す。興奮のるつぼだ。今回も7名が憤死(怒り自死する)した

水戸藩・井伊直弼部下・間部詮勝という男の働き 2

2021-04-04 10:21:08 | 日記
10月24日、間部詮勝が初めて宮中参内した際に斉昭に対する誹謗中傷を吹き込んだ。そして間部の朝廷工作のダメ押しは【水戸藩への勅書の返納を命じる勅書】を得たことだ

これをもって一年かけて水戸藩を追いつめていく。井伊直弼による安政の大獄とは、何より水戸を粉砕することに向けられていた。翌年3月12日、京都での弾圧を終えた間部が江戸に戻った

水戸では朝廷をめぐる間部の謀略など知らない

水戸藩・井伊直弼部下・間部詮勝という男の働き 1

2021-04-04 10:05:56 | 日記
孝明天皇天皇は幕府寄りの九条尚忠を関白と内覧の地位から外そうとした。これに間部は圧力をかけ、逆に勅書の公布に動いた四侯や、皇族の青蓮門院跡までも謹慎などの処罰に追い込んだ。天皇は重臣たちを根こそぎ持っていかれたのである

これによって朝廷内では関白九条の地位は回復し、徳川家茂新将軍の宣下を得ることができた

そして12月30日には、【条約調印についての疑念氷解、鎖国の儀は武備充実まで猶予する】の二点を盛り込んだ勅書が間部に下された。いづれも間部の強引な工作の結果他ならない

水戸藩・井伊直弼と老中・間部詮勝(まなべあきかつ)

2021-04-04 09:51:14 | 日記
水戸藩への勅書が、井伊直弼の猜疑心を決定的にした。9月3日に老中間部詮勝を上京させ集中的な工作に中らせた

目標は3つ
1 勅書問題で立場が危ない関白九条の復位
2 勅書降下の首謀者の捕縛
3 水戸陰謀説を朝廷に呑ませること

間部詮勝は「かくなる上は斉昭は切腹、慶喜は水戸か紀州に押し込め、敵は残らず糾明し閉門・押込・隠居などに処するから、東西呼応して一味の捕縛に努められよ」と井伊に督促した

※勅書の斡旋に動いた梅田雲浜逮捕
※鵜飼父子拘引
※鷹司家、堂上家の家臣たち逮捕
※年末までに京都での逮捕者40人程
(30人は公家関係者)