るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・水戸藩への勅書は孝明天皇の愚痴だったのに、、

2021-04-04 09:33:18 | 日記
水戸藩への勅書は、【勅許を得ずに通商条約に調印した幕府への不満や泣き言をつらねたもの】だが、水戸藩はただ聖なる勅書をたまわった栄光に酔い、感激のあまり、その政治的意味や影響を考える冷静さに欠いていた

★密談
水野忠央土州守
「これは水戸の手入れにより無理に出させたものであり、勅書をかさに着て現幕府を排除する策謀だ。天下の政事を取ろうとするものに外ならず、決して屈してはならない」

井伊直弼
「どこまでも押し抜くつもりだ。天皇への忠誠、自分に勝る者はいない」

水野
「水戸など厳重処罰せよ。そうすれば奴らは武器をとる。しかし水戸に同調する藩は二、三であり、朝飯前の仕事で片がつく。新将軍宣下さえ無事に済ませばこっちのものだ」

井伊
「どこまでも張り込むつもりだ」

8月29日ついに閣議は【勅書伝達を禁ずる】決定を下した
「水戸への勅書降下は古例無きことで争乱のもとにもなる。よって伝達差し止めを朝廷に通達する」と水戸藩に通告。同時に藩への直接の圧迫に乗り出してきた

水戸藩への勅書降下によって天皇とつながった糸は、逆に幕府から藩に対する圧迫につながった




水戸藩・優柔不断な朝廷からの勅書を開封

2021-04-04 08:09:40 | 日記
密勅は8月17日深夜、江戸水戸藩邸に到着。開封の是非をまず駒込(斉昭)にお伺いして許可を得た上で正装して開封。茅野根伊予之介が読み上げる。一同恐悦感激

次いで斉昭に中身を見せた上で、慶篤は重臣を集め勅書奉行の順序を審議。翌日、朝廷への奉答書を発した

19日勅書の謄本を尾張、紀州、田安、一橋に伝達。同時に慶篤は登城禁止の身なので、老中太田を藩邸に呼んだ。慶篤としては単独で勅書を列藩に伝達するわけにはいかない。「徳川扶助」の勅書なのだから。だがこれがすんなりいくはずもない

19日には勅書は幕府にも到着。本文は水戸のものと同文だが、独自の添書と別紙が付加されていた。しどろもどろ、言い訳めいた付属文書で、水戸藩への添書とは好対照のものだ
「、、水戸からの口入れの結果では毛頭なく、書き方は少々無遠慮なところもあるが、くれぐれも公武分裂のきっかけにならぬよう配慮されたい、、」と

この付属文書を盾にして、幕府は時を稼ごうとした。慶篤が速やかに諸藩に伝達すべしとの要請に対して、幕府は猶予を求める回答をよこした。今月一杯両者間でこの押し問答が繰り返される。それこそ徳川家を扶助するどころか、勅書の取り扱いをめぐって幕府と藩の間に重大な対立が浮上してしまっている

そして水戸藩の最大の敵は井伊直弼なのである