るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・教祖斉昭への誤った忖度

2021-04-06 09:36:03 | 日記
■江戸の水戸藩邸慶篤も、水戸の重役たちも、ますます強く斉昭の御威光を頼りに、その決定に依存していく
だが、斉昭は謹慎中。藩政の責任の所在が宙に浮いている。その結果斉昭の意向を忖度して事を運ばざるをえない

■家老が懇願した斉昭論書
「水戸藩の方針は幕府へ速やかな勅書返納である」と、その問題の焦点・激派長岡勢を説得する内容の斉昭書。家老たちは藩士たちを弘道館に集め、斉昭論書を掲げて説得に及んだ

■だが、しかし
斉昭自身が勅書を江戸藩邸から水戸に抱え込んで以来、何を諭されようが斉昭の本心は【勅書返納反対】なのだという憶測が藩内から消えることはなかった。斉昭・藩主就任以来その言動に深く影響されてきた藩士から、この忖度は消えない

水戸藩権力は依然として斉昭のところにある。水戸藩にも江戸慶篤にもどこにもない



水戸藩・【尊王攘夷盲信者】と水戸藩論の分岐

2021-04-06 09:06:25 | 日記
■安政の大獄。水戸藩は混乱し迷走を続けるしかなかった。この右往左往する行動は言論の紛糾と分裂を伴う。というより行動と言論は一つのことだ

■集団の言説→実践
あるいは
言説実践→分岐
という有様を展開する


■危機に臨んだ政治体の言論の分岐
江戸水戸藩邸にいる藩主慶篤は幕府を恐れ、幕府の意向に終始従っていた。自主性などまるで感じられない。「よかろう様」と陰口をたたかれている。しかしこれはあくまで父親との比較上のことであり、藩主としては至極あたりまえだ。むしろ斉昭が特殊なのである

斉昭は藩主就任以来30年、その独特の振舞が藩内外に軋轢を生んできた。今回の処分もその結果である。出過ぎた殿様など藩にとっては有難迷惑。慶篤と家老たちの迷走ぶりは、この事情の表れであった

水戸藩と幕府はあまりにも距離が近い。藩政を担う重役たちは、幕府と藩内の原理主義の狭間で終始右往左往している有様だ

藩主あっての家来、藩主の意向の執行役というのが重役らの役割であるのに、幕命による藩主の決定をすぐさま水戸では実行でいない。藩論が極論に分岐しているからだ。【勅書の幕府への返納】が藩の前提事項であるが、【勅書護持論】の激派の長岡勢がいる。厳重処置が必要だが実行となると形勢は容易ではない。政治的決断ができないクズな官僚たち、という以上に激派支持基盤がなお藩内に広くわだかまっているという証である

安政6年末から2ヵ月程、江戸と水戸の間を早馬がめまぐるしく行き来した



水戸藩・極論の狭間で迷走する

2021-04-06 02:47:12 | 日記
藩内に戻る

激派は少勢にすぎないが、藩としては蹴飛ばしてしまうには重すぎる一団として水戸街道筋に居座っている。なぜならそこに【尊王】の一言が凝集しているように見え、一番根強い支持が底辺にわだかまっている

勅書返納命令の幕府と勅書護持の一団に羽交い締めになり、その狭間で水戸藩は迷走をつづけていく。そして藩論が分かれ、諸集団分立へと追い立てられていく。これは大衆叛乱の典型的展開。この光景に幕末水戸藩の悲劇が見てとることができる

遂に2月16日家老らの嘆願により斉昭は長岡屯集(激派)処分を裁可した。そして長岡へ向けた部隊編成が行われた



水戸藩・薩摩に利用され裏切られた(泣)桜田門外の変

2021-04-06 02:12:11 | 日記
西国雄藩は水戸の叛乱を【全国的な幕政改革の一環】と位置づけていた。水戸の蜂起だけで勝利できるとは思っていない。【日本一国の同時革命】そのための【水戸の全段階蜂起】の路線である

薩摩藩はすでに井伊大老暗殺計画が想定されており、江戸滞在中の高橋多一郎・金子と密かに連絡を取り合っていた

ここでも、「水戸で先ず事を挙げれば我らもこれに続く覚悟だ」と、水戸が先にたてとの要請である。この段階では時期尚早だというのが水戸側の対応であった。それが高橋らが脱藩せざるを得ない状況に追い込まれて、同時革命路線は井伊大老暗殺決行として急速に煮詰まっていった

薩摩と連携して、しかし水戸が主力となって、暗殺実行が決意された。万延元年三月三日決行された桜田門外の井伊襲撃である

襲撃の直後、現場指導者の金子、関が西上した。だが幕府の厳しい探索に追い詰められたばかりか、当の薩摩藩のことなかれ方針に裏切られた

関を除いた井伊暗殺の処罰が文久元年7月に終了。高橋らが構想した【日本一国同時革命と水戸の全段階蜂起】は、水戸の激派を藩の外へ追い出すことになった。自らの路線が即した結果でもあった

長州藩や薩摩藩の討幕挙兵から翻って見れば、水戸激派の全国展望が絵空事だったとは思えない。だがともかく高橋多一郎ら斉昭側近にして改革派第二世代の激派たちは、水戸の政治から脱落・脱出したのである

水戸藩・水戸と西国雄藩との同時蜂起計画

2021-04-06 01:34:07 | 日記
もう一つ、水戸藩士の長岡屯集の背景には激派による別の計画が潜行していた。【全国一斎蜂起】である
高橋多一郎は同志を西国へ派遣し連携工作に乗り出した

関鉄之助宛書簡「勅書の諸藩への回達は、大事業であり援助を得なければ成就はできない。血誠義勇をもって諸藩有志と結び、互いに激励して相応援することが肝要である。辛苦をかけるが、邦家のため世道のため是非尽力してもらいたい」

■関鉄之助・矢野長九郎
福井藩から鳥取藩へ回った。鳥取で旧知の安達清風は「水戸で勅書回達のため挙兵を行うならば、我が藩は直ちに兵を挙げて応援する」と快諾した

次に関たちは長州まで足を延ばしたが、長州は自重論で動かず、意を得ずして去るしかなかった

■住谷寅之助・大胡資敬
土佐の坂本龍馬と会って藩の要路との接触を依頼したが、実現しなかった
次の宇和島藩でも同様の結果に終わった

■神官・宮田篤親
西国派遣・京都の志士の「斉昭が尊王攘夷の兵を挙げてくれさえすれば、これに呼応して立ち上がるだろう」を聞いて帰国するだけの結果となる

安政の大獄のさなか、決起の盟約は進まなかった。「共に立つ」と答えを得ても、それはあくまで「水戸がまず挙兵するなら」である。会沢が「諸侯などあてにできるか」と警告していたのも、このことだった