年末には水戸藩を上げての評定の結論として「勅書は朝廷への直接返納」を決したが、即実行できない要因が現存している。一つは幕府の拒絶である
慶篤は江戸家老と協議して、朝廷への直接返納が許されない以上、幕府に返納するしかなしと決断、亀井善継を水戸へ派遣した。それでも事は決着しない。その要因は返納断固反対の激派の実力行使だった。長岡屯集という
急進尊攘派(激派)は、勅書の命じる通り諸藩へ回達せよと主張し、返納を物理的にも阻止するため、年末から水戸街道の要地長岡駅を占拠した。藩士24人、神官20人程度である。彼らは往来する藩の重役一行をその都度捕らえては詰問し論争を吹っ掛け押し問答となる
そのうち激派らは、回達は唱えず、【勅書を護持していること自体が尊王の忠義の証】だと主張するようになった「勅書の意を行い、臣子の分を尽くす他ないのだ」と、勅書の処置政策問題に理念の壁が立ちはだかった