■会沢正志斎にとっては、尊王も攘夷も国家統一と強化のための手段だった
国家とは『新論』の時期には幕藩体制。時移れば公武合体体制である。何よりもこれを強化(富国強兵)することが急務であり、そのためには攘夷、尊王の士風を臨機応変に鼓舞するのが有益な手立てとなる
【強を養うは、一時の便宜にして必ずしも永制となさず】と会沢は書いた。統治者たるもの一律の杓子定規はいけない
会沢新論の尊王攘夷はこれである
■とはいえ、『新論』では、尊王も攘夷も激して説いている。それは統治者の便宜手段というにはそぐわない
何よりも、これを真に受けて行動に走った若者がいた。幕府に敵対して藩をあげての叛乱までもたらした。藩論は紛糾し分裂状態に至ったのだ
観念を真に受けて走った若者たちに「それは誤解だ、はき違いであることが分からないのか」と会沢が批難し攻撃する
■薩長のごとく、尊王攘夷を手段として操るマキャベリズム(どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果的に国家利益を増進させたなら許される)にまで会沢の言動は達してはいなかった
水戸藩は統治操作する政治体として、自己を対象化(自己を客観的に見る)できなかった
尊王攘夷のジレンマは国体論(トップが2つ天皇と東照宮)そのものが、抱え持っていたことだ