るるの日記

なんでも書きます

地方史研究・鬼怒川、小貝川の氾濫の原因・治水工事とダム建設

2021-07-01 18:35:31 | 日記
■水は私たちの生命に不可欠である。しかし時に猛威をふるい、生命や財産に脅威を与える。人は利水や洪水対策のために、水をとりまく環境に手を加え自然と共存してきた。人間の生活と密接なつながりを持つ水は、自然な特性と共に、人間と自然との関係の中で改変され、時代とともに変化してきた歴史的所産でもある

■ここでは鬼怒川下流部に位置する鬼怒川・小貝川低地(以下K低地と呼ぶ)の水環境を紹介する

K低地における水環境の最も重要な構成要素は、幅4.5Kmの南北に細長いK低地の両端を南流する
鬼怒川
小貝川
である

■地域の降雨特性と災害
K低地が位置する茨城県南西部は太平洋岸気候区に属し、降水量は冬少く、夏多い
年平均降水量は約1200ミリメートル
日本の平均より500ミリメートル少ない
梅雨、台風、雷雨がもたらす豪雨が時には水害を発生させ、昭和61年台風10号(1日203ミリメートル)では、小貝川が破堤し、内水氾濫も発生

■河川の流域条件や水特性を見て、水利用の背景を知る

鬼怒川は、2000メートル級の急峻な山地を水源とする急流河川である。流域面積65%は山地で、水量も豊富

小貝川は、標高150~200メートルの丘陵を水源とし、流域面積10%は平地である
流れは緩やかで、水量も鬼怒川ほど多くないため、江戸時代から取水堰が築かれ、用水河川としての利用が進んだ

水量が多い鬼怒川には、大規模な取水施設はなく、舟運路としての利用が進んだ
そして関東地方の大部分を流域とする利根川水系は、政治経済の中心地江戸と地方を結ぶ重要な大運河網として、江戸時代から明治初頭にかけ利用され、鬼怒川はK低地をこの広域経済圏に組み込み、宗道河岸の繁栄をもたらした

■洪水の性質・地域性・治水・水防
洪水の性質をみることは、地域の生活の背景の一端を知ることでもある。近代土木技術導入以前は、洪水に対して地域や個人レベルでの水防が不可欠であり、生活様式等にもその影響を見ることができる

鬼怒川と小貝川の洪水規模を最大洪水水量で比較すると
鬼怒川5700m3/sec
小貝川1320m3/sec
鬼怒川が圧倒的に大きい

大水の襲来は鬼怒川が早く、小貝川はゆっくりしている。昭和61年洪水では、両流域の雨の降り方に大差はないが、最大水位の出現は、鬼怒川では最大降雨強度の観測時間から14時間後、小貝川では34時間後と小貝川が約1日遅い

昭和13年水害では、この出水の時間差を利用し、小貝川の氾濫水を水位の下がった鬼怒川へ、人為的に堤防を切り崩し排水した

■洪水は堀込河道から溢れるタイプで、後背湿地では内水氾濫が発生しやすい。緩勾配のため本川の洪水が支川へと逆流し氾濫を起こしやすく、下妻と水海道地点の2ヶ所で河川が分流され、低地の排水河川合流部へは水門や排水機場が建設されている。また蛇行する河道の直線化が各所で行われている

■近代土木技術は自然を自由に改造・制御できる力を人間に与えた。水害は減り、低湿地は豊かな穀倉地帯へと変わり、生活は安全で豊かになってきた

しかし一方で河川は予期せぬ様々な反応を起こし始めた

小貝川では同じ規模の降雨に対して、より大きな最大洪水流量が発生し、洪水計画規模が何度か改訂されている

この主要原因は、圃場整備に伴う排水路の整備、治水工事に伴う河道の直線化や堤防の建設等が、雨水の流出を早めたことにある

また、本来土砂生産量の多い鬼怒川の川床が低下し、取水困難になったり、橋脚基礎が洗掘されたりしている。これは、上流山地の砂防ダム群や多目的ダムでの土砂貯留、川砂利採集による下流への土砂供給量の減少が主な原因といわれている


注・この資料は平成12年に出版されたものです

地方史研究・平野の地形・木曽川流域

2021-07-01 16:09:33 | 日記
♦️沖積平野の地形
河川は山から平野へ出た所に
砂礫を堆積して扇状地を形成する

■木曽川は犬山城のある犬山を頂として、一宮まで約半径12Kmの扇状地を形成している。地形を見るには犬山城へ上がってみるとよく見える。また平野は【河道に沿って】自然の状態を見ることができる

■木曽川で河床が砂礫になっているのは犬山から笠松付近までで、この範囲が扇状地

扇状地は砂礫から出来ており、洪水氾濫も起きやすいので、昔は松林とか水害に強い桑畑などになっていた

■扇状地から下流は砂からできている数mの高まりが、今の河道や昔の河道に沿って分布。この高まりは自然堤防といわれ、昔から洪水の危険性の少ないことから、集落、畑として利用された

■自然堤防と自然堤防の間は後背湿地と呼ばれる低まりで、砂より細かいシルト、粘土からなり、洪水時水が溜まりやすく、水田に使われている。今では後背湿地も宅地になっている所が多い

■これより下流はデルタと呼ばれる低湿地。土地は平坦。少し掘ると青い粘土が出てくる
濃尾平野では名古屋北部から甚目寺、津島を結ぶ線

甚目寺、津島神社は旧海岸線のいわれを持つ

デルタ南は江戸時代の干拓地。最近は地盤沈下のため、濃尾平野では0m以下の土地が400平方Kmもある

名古屋港周辺は海底の砂泥を掘り上げて作った4m程の埋め立て地で、工場などに使われている














地方史研究・人々の活動の舞台となった平野

2021-07-01 15:30:15 | 日記
♦️平野とは
山地から河川により砂礫を運んできて、地盤に堆積し形成された
沖積平野、堆積平野と呼ぶ

関東平野2600メートル
濃尾平野1500メートル

■平野を取り囲む山や丘陵
平野が隆起して侵食が進み
凹凸が激しくなったもの
(平らなのは台地)

古来城郭はほとんど台地の端を利用しており、名古屋城は厚田台地の北端、大阪城は上町台地の北端、江戸城は武蔵野台地の東端に位置している

■平野は、地盤の隆起・沈降運動、海面の上昇、下降の影響を受ける

南極大陸では平均2000m.グリーンランドでは平1500mの厚さの氷床に覆われ、気温上昇続け、これらの氷が全部融けたとすると、海は今より約60m上昇する

★18000年前
気温が低い氷河時代で、海は今より100~140m低い
瀬戸内海、伊勢湾、東京湾は陸だった

★4000~6000年前
海は今より2~6m高く
関東平野は古河付近まで
濃尾平野は大垣付近まで
海に覆われた
この時の海岸線沿いに貝塚分布

★弥生時代
やや寒い
濃尾平野では海面が3m下がった
デルタ出現し農耕が発展

★平安時代
やや気温が高い
海面上昇

★鎌倉~江戸時代
やや寒い
海面低下
新田開発の基礎となるデルタ化促進








地方史研究・景観研究の対象

2021-07-01 14:39:25 | 日記
景観研究の対象

★自然条件を見る
歴史学は自然科学のような普遍性や法則性を持たない人文学である。したがって景観研究もまた人文学なのではあるが、この研究には自然条件への関心がなければ成り立たないという特質がある。なので地形、水文、環境変化等の自然科学の諸問題を扱っている

★生産領域を見る
人間(集団)が作ってきた景観には、生活維持のための要素が多面的に内包されている。(耕地、水田、水利、肥料・建築資材・燃料の供給源とした森林、海、川その他多数)

★居住領域を見る

★生活施設を見る
寺院、墓地、神社


地方史研究・景観研究

2021-07-01 13:32:11 | 日記
■景観研究の出発点は「すべての現存在は歴史の所産なのだ」という認識からである。私たちが目にする景観はすべて現在の物だが、それには必ず歴史が内包されているので、現在の景観から時間をそって過去に至ることが可能になってくる。このような時間遡行を【景観復原】という

■景観研究は、現在を通して過去に至るという態度において民俗学の方法に似ている。また景観復原のために過去のさまざまな資料を用いるという点において考古学や文献史学の方法に似ている。景観研究には2つの方法が融合している

■景観は、地表にあるものの眺めの中の特定部分を取り出して、知的認識の対象としようとする意思が強く働いている

景観の類語
景色、風景、風光

■景観は自然景観と人為景観があるが、日本では一見自然景観と見えるものも、ほとんどは人為化されている(例外は森林
歴史研究の対象となるのは、主として人為景観である

■日本の景観の中心は、村と町、野と山林、海と海辺、それらをつなぐ陸路・水路等である

■特に村はその全体が景観研究の好対象である。

★村とは
居住領域としての集落
生産領域としての耕地
その他の寺社、水路、村の中の道
によって構成される小地域内における社会統一体である