■法華経の行者の祈りの叶わぬ事は
あるべからず
法華経の行者を
諸の菩薩
人天
八部等
二聖
二天
十羅刹等千に一も来って
守り給わぬ事侍らば
上は釈迦諸仏をあなづり奉り
下は九界をたぼらかす
失あり
行者は
不実なりとも
智慧愚かなりとも
身は不浄なりとも
戒徳は備えずとも
南無妙法蓮華経と申さば
必ず守護し給うべし
行者を嫌い給わば
誓を破り給いなん
とくとく利生(利益)を授け給えと強盛に申すならば、いかでか祈り叶わざるべき
■問い
上に書かせ給う道理・文証を拝見するに、法華経を信ずる人、現世の祈り後生の善処は疑いなかるべし
★しかりといえども此の二十四年が間
天台・真言等の名匠、大事の祈りをなすに、はかばかしくいみじき祈り有りとも見えず
経文のそらごとなるか
行者の行いの愚かなるか
時機のかなわざるかと
疑われて後生もいかんとおもう
それはさておき
★御房(日蓮)は山僧(比叡山僧)の御弟子とうけ給わる
父の罪は子にかかり
師の罪は弟子にかかる
とうけ給わる
★比叡山の僧徒
園城寺の
山門の堂塔
仏像、経巻
数千万を焼き払わせ給うが
殊に恐ろしく世間の人騒ぎ
うとみあえるはいかに
但し不審なことは
かかる悪僧どもなれば
三宝の御意にもかなわず
天地にも受けられ給わずして
祈りは叶わざるやらんとおもえ候
は如何に
■答う
日本国においては此の事大切なり
これを知らざる故に多くの人
口に罪業をつくる
まず山門始りし事は
此の国に仏法渡って二百余年
伝教大師立て始め給いしなり
当時の京都、天台宗の渡る時を待ち給いし間、都を立て給わず
上宮太子(聖徳太子)の記にいわく
「我が滅後二百余年に
仏法日本に弘まる可し」
伝教大師、延暦年中叡山を立て給う
桓武天皇は平の京都を立て給いき
太子の記文違わざる故なる
されば山門と王家は
松と柏の如し
蘭と芝に似たり
松枯るれば必ず柏枯れ
蘭しぼめば芝しぼむ
王法の栄えは
山のよろこび
王位の衰えは
山の嘆きに見えしに
既に世関東(鎌倉幕府)に移りし事何とか思食しけん
(なぜなのか推量する)
■【後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げた】
承久三年
四月十九日
京夷乱れし時、関東調伏の為
隠岐の法皇の宣旨によって
始めて御修法十五壇の秘法行われた
■修法十五壇の秘法
一字金輪・天台座主慈円僧正
四天王法・成興寺宮僧正
不動明王法・成宝僧正
大威徳法・観厳僧正
転輪聖王法・成賢僧正
十壇大威徳法・覚朝僧正10人
如意輪法・妙高院僧正
毘沙門法・常住院僧正
如法愛染王法・仁和寺
仏眼法・大政僧正
六字法・快雅僧都
愛染王法・観厳僧正
不動法・勧修寺僧正
大威徳法・安芸僧正
金剛童子法・安芸僧正
五月十五日
伊賀太郎判官、京に討たれ
二十一日
大勢の軍兵上ると聞こえしかば
残る所の法
六月八日行い始めらる
五月二十一日
武蔵守殿が海道より上洛
甲斐源氏は山道を上る
式部殿は北陸道を上る
六月五日
大津を堅める手、甲斐源氏に破られる
六月十三日、十四日
宇治橋の合戦
同十四日
京方破られる
十五日
武蔵守殿、六条へ入る
七月十一日
法皇隠岐へ流され給う
中院は阿波の国へ
第三院は佐渡へ
殿上人七人誅殺され
終わる
■かかる大悪法、年を経て
漸漸(徐々に)に関東に落ち下りて
諸堂の別当、伴僧となり
連連(絶えることなく)とこれを行う
本より教法の邪正勝劣をば、しろしめさず、只三法をばあがむべき事とばかり思し召す故に自然として是れを用いきたり
関東の国国のみならず
叡山、東寺、園城寺の座主、別当、皆関東(鎌倉幕府)の御計らいと成りぬる故に、関東かの法の檀那と成り給いぬるなり