■「この三身如来こそ、久遠元初(久しく遠い昔、もともとの初まりの常住の生命、無始無終の生命)の自受用身(久遠元初以来、宇宙と共に実在する本有常住の仏)たる日蓮大聖人である。そして弘安二年十月十二日ご建立の大御本尊こそが、一念三千の当体なのである。ゆえにこの御本尊を信じて題目を唱えることにより、三身即一の仏と成り、幸福境涯に到達することができるのである」とある
🤔るるの私見
久しく遠い昔、この世、あの世(霊界)、命、人が同時に産まれたので、日蓮大聖人だけでなくすべての人々は、久遠元初以来の存在なんだと想う。仏とは命の作用の一つで、スイッチを入れたら作動する。そのスイッチの入れ方は人により違い、この資料の場合は大御本尊を信じて題目を唱えることでスイッチオンになるのです。
■【一念三千法門】いわく
「十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)の衆生、各互いに十界を具足し、合すれば百界なり
百界に各各十如(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を具すれば千如なり。
此の千如に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり
百界と顕れたる色相は皆すべて仮の義なれば仮体の一なり
千如はすべて空の義なれば空諦の一なり
三千世間は総じて法身の義なれば、中道の一なり
法門多しといえども、但三諦なり。此の三諦を三身如来と申すなり
始めの三如是(相性体)は本覚の如来なり、
終わりの七如是(力作因縁果報・本末究竟等)と一体にして
無二無別なれば本末究竟等(ほんまつくきょうとう)とは申すなり
本と申すは仏性
末と申すは未顕の仏、九界の名なり
究竟等と申すは、如来と凡夫差別なきを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり
三如是は本覚の如来なり。本覚の悟り出したまえる妙覚の仏なれば、我等は妙覚の父母なり、仏は我等が生んだ子なり」
🤔るるの私見
私はこの教えを通して、地縛霊や浮遊霊などのこの世に彷徨う霊や、それらが見えて話が通じて、彷徨う霊を納得させ、それぞれの命の世界へ(それぞれのあの世という霊界)戻すことのできる霊能者のシステムを考察したい
■仮の相である百界の世界を、目に見えない性分まで深く観察していけば、十如是の整然たる因果があることが明らかになる
この十如是こそ、略開三顕一(釈尊は42年間方便権教を説いてきたが、方便品で十如是実相を説いて実を示した。唯一乗の法のみあり、二無くまた三無し。一法乗、最高の幸福を獲得することが人生最大の目的である、と説く)の文であり、一念三千の法門の出処である
百界は無軌道に起滅しているのでなく、十界のいずれにせよ、十種の生命に区分してみることができる。この十種の生命観が、十如であり、千如の因果からはみだすような現象は、何一つとしてありえない
ことごとく整然たる妙法そのものの運行であり、さればこそ、法界の一切は妙法蓮華経、当体蓮華そのものであると示される
この百界千如も、一念の所有者である個人の五陰と、その統一体である衆生と、その舞台である国土、この三世間を問題にしなかったならば、空論に終わる。これによって三千世間を成じ、その三千は即一念であり、その一念は即三千であり、それによって完全なる法身かわ得られる
これが中道実相である
釈尊の法門は多いが、すべては三諦を解いたにすぎない。あらゆる仏の説は三諦の法門である
🤔るるの私見
心霊現象も、千如の因果からは、はみださない現象。霊能者の浄霊も千如の因果からはみださない力
通常肉体が死んだら命に戻り、三千世間=一念の構造は崩れ去るが、死後も一念がこの世(三千世間)に執着することで、肉体がなくとも三千世間は成り立ち、私たちに現象を見せるのか
霊能者がたまに強制的な浄霊と称する技術を駆使するが、それは強制的に霊の三千世間を壊して、あの世・霊界・命の世界へ強制連行させるのかもしれない。。しかし絶対そんな荒業は上司の命令なしに勝手にはおこなってはいけない技術なんだろうと、全く霊能力がない私でもわかりました