るるの日記

なんでも書きます

仏法研究・三千世間と霊と霊能者

2021-07-06 16:48:33 | 日記
■「この三身如来こそ、久遠元初(久しく遠い昔、もともとの初まりの常住の生命、無始無終の生命)の自受用身(久遠元初以来、宇宙と共に実在する本有常住の仏)たる日蓮大聖人である。そして弘安二年十月十二日ご建立の大御本尊こそが、一念三千の当体なのである。ゆえにこの御本尊を信じて題目を唱えることにより、三身即一の仏と成り、幸福境涯に到達することができるのである」とある

🤔るるの私見
久しく遠い昔、この世、あの世(霊界)、命、人が同時に産まれたので、日蓮大聖人だけでなくすべての人々は、久遠元初以来の存在なんだと想う。仏とは命の作用の一つで、スイッチを入れたら作動する。そのスイッチの入れ方は人により違い、この資料の場合は大御本尊を信じて題目を唱えることでスイッチオンになるのです。

■【一念三千法門】いわく
「十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)の衆生、各互いに十界を具足し、合すれば百界なり

百界に各各十如(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を具すれば千如なり。

此の千如に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり

百界と顕れたる色相は皆すべて仮の義なれば仮体の一なり
千如はすべて空の義なれば空諦の一なり
三千世間は総じて法身の義なれば、中道の一なり
法門多しといえども、但三諦なり。此の三諦を三身如来と申すなり

始めの三如是(相性体)は本覚の如来なり、
終わりの七如是(力作因縁果報・本末究竟等)と一体にして
無二無別なれば本末究竟等(ほんまつくきょうとう)とは申すなり

本と申すは仏性
末と申すは未顕の仏、九界の名なり
究竟等と申すは、如来と凡夫差別なきを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり

三如是は本覚の如来なり。本覚の悟り出したまえる妙覚の仏なれば、我等は妙覚の父母なり、仏は我等が生んだ子なり」

🤔るるの私見
私はこの教えを通して、地縛霊や浮遊霊などのこの世に彷徨う霊や、それらが見えて話が通じて、彷徨う霊を納得させ、それぞれの命の世界へ(それぞれのあの世という霊界)戻すことのできる霊能者のシステムを考察したい


■仮の相である百界の世界を、目に見えない性分まで深く観察していけば、十如是の整然たる因果があることが明らかになる

この十如是こそ、略開三顕一(釈尊は42年間方便権教を説いてきたが、方便品で十如是実相を説いて実を示した。唯一乗の法のみあり、二無くまた三無し。一法乗、最高の幸福を獲得することが人生最大の目的である、と説く)の文であり、一念三千の法門の出処である

百界は無軌道に起滅しているのでなく、十界のいずれにせよ、十種の生命に区分してみることができる。この十種の生命観が、十如であり、千如の因果からはみだすような現象は、何一つとしてありえない

ことごとく整然たる妙法そのものの運行であり、さればこそ、法界の一切は妙法蓮華経、当体蓮華そのものであると示される

この百界千如も、一念の所有者である個人の五陰と、その統一体である衆生と、その舞台である国土、この三世間を問題にしなかったならば、空論に終わる。これによって三千世間を成じ、その三千は即一念であり、その一念は即三千であり、それによって完全なる法身かわ得られる
これが中道実相である

釈尊の法門は多いが、すべては三諦を解いたにすぎない。あらゆる仏の説は三諦の法門である

🤔るるの私見
心霊現象も、千如の因果からは、はみださない現象。霊能者の浄霊も千如の因果からはみださない力

通常肉体が死んだら命に戻り、三千世間=一念の構造は崩れ去るが、死後も一念がこの世(三千世間)に執着することで、肉体がなくとも三千世間は成り立ち、私たちに現象を見せるのか

霊能者がたまに強制的な浄霊と称する技術を駆使するが、それは強制的に霊の三千世間を壊して、あの世・霊界・命の世界へ強制連行させるのかもしれない。。しかし絶対そんな荒業は上司の命令なしに勝手にはおこなってはいけない技術なんだろうと、全く霊能力がない私でもわかりました

仏法研究・私は三に分かれるけど一、一に定まるけど三。我が身即三身即一の本覚の仏。直感的に仏に成るのは怖い

2021-07-06 14:29:58 | 日記
♦️三
私という人は
空・仮・中です

■【空】心性
私は命から、人として生まれ、老い、病み、死に、また命となる性分である

世界を空と観ずるとき
我が身は即、【報身如来】

我が先業に受けた相性体力という私と、その私にくっついてくる見惑、思惑の空も【報身如来】

■【仮】色形に顕れる相
私は仮の因縁によって和合して人として生きている。人として死ぬまで生きている

世界は仮と観ずるとき
我が身は色形顕れるこの相
我が身は即【応身如来】

我がこの身、先業によって受けた相性体力という私と、その私にくっついてくる塵沙(じんじゃ)の惑はことごとく即【応身如来】



■【中】身体
私は人として生きていても、人として死んで命そのものと成っても、その本質は変わらない

世界は中道の仏の法身
我が身は即【法身如来】
法性

中道の義に順じて、業によって受けるところの相性体力という私は、それに従う無明退いて、即【法身の如来】と心開く

♦️その本質とは
この三身如来、全く外になし
我が身は即、三身即一身の仏である
一身即三身でもある。三に分かれるけど一。一に定まるけど三である

三身如来はよそになし、我が身の上にある。そのように知るを法華経を知る人という

♦️一念に信心がなければ、仏界を欠いて十界を成ぜず。事を収むること編まねからず
その人生は宇宙の法則(妙法)に合わない人生をしていくことになる。信心なくしては法界の理、しかも一番根本の妙理が一身に顕れないから、むなしく人生を過ごすことになる

♦️るるの考察
我が身は三身即一の仏
だが、心はそれを信じようとしない
身体は小宇宙のように正確なリズムで働く。心が乱れ迷うと、身体リズムは正確にその乱れ迷う心に、合わせ身体を乱す(ある意味正確)。だからこそ身体は仏であり神であり命である。

信ずる心とは、乱れ迷う心を仏に成らせてくれるようだ。ただし四六時中ではなく、一時的に。だってね、人間は完璧な仏にはなれないようになっているから。なってしまうと戻ってこれないよ。恐くて寂しくない?仏に成るって。





資料「日蓮正宗教学辞典」をひもときながら【命】について考察する

2021-07-06 12:19:52 | 日記
各宗教に共通する心の作用があります。それは

「宗教を【信じる】心の作用によって、幸せになれる」「信じることで救われる」

ということです。幸せの意味は広いけど、私は「充実感を得れた時」が幸せ。逆に言うと、ほとんどの時間が不快ということになりますが、、、

私には「一つの宗教を信じる」ということがありませんでした。信じるというよりも宗教を学びたい、研究したい。そのような思いで、いろんな日本の宗教にふれてきましたから、宗教関係者との御縁はたくさんありました。

御縁のあった宗教関係者の一人に創価学会員の方がいます。創価学会は昔は日蓮正宗、富士大石寺に所属していましたが、創価学会員と大石寺が対立し別々の道を歩くことになります。

日蓮正宗創価学会当時の教学辞典が私の手元にあります。この辞典を資料として【命】に関する考察を進めてみたいと思います







私は悠久の昔から未来永劫存在する命だと、本心から実感できない理由がある

2021-07-06 10:51:44 | 日記
■人には、全知全能の命の一面がありる
一方人には、命を変化させ、何かに成らせるための働きをするために、煩悩まみれの一面もある

命は、満ちて全うし、不動心で常に変わらず、という【強靭な大我】を持つ。その強靭な大我は超頑固なので、【命そのまま】では変わらない
変わらなくていいからだ
変わらなくて完全だからだ

しかし命は自分の「頑固な大我を変えて何かに成る」ために、人に生まれ落ちる。人の役割は、その変わらない完全なる命を変化させ、何かに成らせてあげること

人は命そのものだが、本心でそれを実感はできないだろう。理屈だけである。実感できないのには理由がある。最後に理由を書きました

欲望から離れられない私の思いは、煩悩を発生させたり、欲望が、やる気や前向きにつながったりと、四苦八苦、苦あれば楽ありと波がある。その思いの発生原因は、縁にふれることからだ。眼耳鼻舌身意がその対象に縁して思いが発生する

そんな波ある思いの生滅が苦楽を感じて変化をそくす。特に苦は「このままではいけない。何とかしなければ」と、大転換させるチャンスとなる

■私には本体がある。命の自我の大我だ。現世で私としての命が始まる悠久の前から、命が終わても未来永劫にあり続ける存在。それが私の本体だ。

しかし命は【人の本体は命の大我】だと、人に本心から気づかれないように振る舞う。なぜなら、人に気づかれてしまうと、仏のような人となってしまい「変化して何かに成る」という、人として生まれた命の目的が叶わなくなるからだ

人がそうなると、命は冷たく残酷にもその人を終わらせる。本心から大我に気づいてしまった人にとっては、それが幸福で本望なのだろうけどね


命・人・この世・霊界は同時に産まれ1セット。命と人の相互作用の場がこの世。命だけの場が霊界

2021-07-06 09:40:47 | 日記
■「私がこの世に生まれる」とは何か?
自分が生まれる前から存在しているこの世へ、母親から産み落とされる。それが「私がこの世に生まれる」であり、私が死んでこの世を去ってからも、この世は何事もなく展開される。。という見方をすると無意味なこの世だと思う。私は人として生まれ、この世限りの数十年の命を生きて死ぬ、そこには何の意味もない

■もう一つの見方
私は悠久の昔からこの世とともに産まれ落ち、常にこの世とともにあり、命を全うし満ち満ちている。母親から産み落とされたのは、人としての私だけど、物心がつくまで、満ち満ちて全うされていた

物心ついて年を重ねるにしたがって分別心がつき、「私の思い(自我)」が生まれた。それでも常に満ち満ちて全うする展開は存在しつづけるが、物心つかないうちだけの安住感覚。人としてこの世で生き抜くためにその感覚は忘却されるのが人としての宿命である

■なぜ安住する世界から私は人として生まれたか?それは何かに成るためである。私の命はこの世とともに常にあるが、何かに成るために、私の命は人として生まれ死ぬという展開もする。何かに成るためには人として生まれ死ななければならない

命に感覚はないけど、あるとすれば心地よい眠りの世界。常にありのままで満ち満ちて全うされた不動心で眠る。だけど命ありのままでは、何かに成れない。なぜなら因縁なく、常であり、我の循環という世界で、楽を循環し常に等しい世界だから
それが命の世界
命そのものは何かを生かすが、何かに成れない。変化しない。だから命は人を経由して変化し何かに成る

■命は人が生かす
人は命の細胞のようなもの
生まれては消え
消えては生まれ
命を生かす
人は命を生かし、命を何かに変化させるという重要な働きをする。人が滅亡すると命とこの世も存在意味がなくなり元の元の元の、、原点の無となる