るるの日記

なんでも書きます

仏法研究・一念三千法門 4 一色一香中道に非ざること無し

2021-07-13 12:46:55 | 日記
法華経は念念に
一心三観
一念三千
のいわれを観ずれば
我が身本覚の如来なること
覚り出され
無明の雲晴れて
法性の月明らかに
夢想の夢醒めて
本覚の月輪いさぎよく
父母所生の肉親
煩悩具縛の身
即、本有常住の如来となるべし
此を即身成仏とも
生死即涅槃とも申す

此の時、法界を照し見れば
ことごとく中道の一理にて
仏も衆生も一なり

されば天台の所釈に
「一色一香中道に非ざること無し」
と釈し給えり

此の時は十方世界皆寂光浄土にて
何れの処を浄土と云わん
是をもって法華経に
「是の法は法位に住して
世間の相、常住なり」
と説きたまう

仏法研究・一念三千法門 3 私たちの子は妙覚仏、妙覚仏が本覚を覚り、本覚如来と成る

2021-07-13 12:24:30 | 日記
■十界の衆生
各互に十界を具足す
合すれば百界なり

百界に各各十如を具す
合すれば千如なり

此の千如是に
衆生世間・国土世間・五陰世間
を具すれば三千なり

百界と顕れたる色相は
皆全て仮の義なれば
仮諦の一なり

千如は全て
空の義なれば
空諦の一なり

三千世間は
総じて法身の義なれば
中道の一なり

法門多しといえども
但三諦なり
この三諦を
三身如来とも
三徳究竟とも
申すなり

■始の三如是は本覚の如来なり
終の七如是と一体にして
無二無別なれば
本末究竟等とは申すなり

本と申すは仏性
末と申すは未顕の仏、九界の名なり
究竟等と申すは
妙覚究竟の如来と
理即の凡夫なる我等と
差別無きを
究竟等とも
平等大慧の法華経とも申すなり

■始の三如是は本覚の如来なり
本覚の如来を覚り出し給へる
【妙覚の仏】なれば
我等は妙覚の父母なり
仏は我等所生の子なり
「止の一に云わく
止はすなわち仏の母
観は仏の父なり」

譬えば
人、十人あらんずるが
面々に蔵蔵に宝をつみ
我が蔵に宝のある事を知らず
餓え死し、凍え死す

或いは一人、此の中に
賢き人ありて
覚り出すが如し
九人は終に知らず
或いは教えられて食し
或いは含められて食すが如し

一の止観の二字は
正しく聞体を示す
聞かざる者は
本末究竟等もいたずらか

子なれども
親にまさる事多し
仏は子なれども
賢くましまして覚り出し給えり
凡夫は親なれども
愚痴にして未だ覚らず




仏法研究・一念三千法門 2 三辺読むことで三を観じれる

2021-07-13 11:18:08 | 日記
第一に
【是相如】と
相性体力以下の十を
如と云う
如と云うは空の義
故に十法界皆空諦なり
是を読み観ずる時は
我が身即報身如来なり
八万四千または般若とも申す

第二に
【如是相】
是れ我が身の色形顕れたる相なり
是れ皆仮なり
相性体力以下の十なれば
十法界皆仮諦と申して
仮の義なり
是を読み観ずる時は
我が身即応身如来なり
又は解脱とも申す

第三に
【相如是】と云うは
中道と申して
仏の法身の形なり
是を読み観ずる時は
我が身即法身如来なり
又は中道、法性、涅槃、寂滅為
とも申す

この三を
法報応の三身
空仮中の三諦
法身、般若、解脱の三徳
とも申す

此の三全く外になし
我が身即三徳究竟の体にて
三身即一身の本覚の仏なり
これを知るを
如来とも聖人とも覚りとも云う
知らざるを
凡夫、衆生、迷とも申す


仏法研究・一念三千法門・天台大師一念三千法門を覚るが談じず、200年後妙楽大師により釈される

2021-07-13 10:55:02 | 日記
法華経の余教に勝れたる事
一心三観
一念三千
と云う事にあり

薬王菩薩
漢土に出世して
天台大師と云われ
此の法門を覚り給う
しかれども
多くの法門を説きしかども
此の一念三千の法門をば談じ給わず
百界千如の法門ばかりなり

天台大師57歳の夏
玉泉寺と申す処にて
御弟子・章安大師に教え給う
止観と申す文十巻あり
なお秘し給いて
ただ六即・四種三昧ばかりなり
五の巻に至って
十境
十乗
一念三千
の法門を立て
それ一心に具する等云々

是より二百年後に
妙楽大師釈して云わく
「当に知るべし
身土一念の三千なり
故に成道の時
此の本理にかなうて
一身一念法界に遍し」

此の一念三千一心三観の法門は
法華経の一の巻の
十如是より起れり








仏法研究・十如是事 2 我が心性の百蓮華

2021-07-13 10:26:23 | 日記
譬えば
春夏、田を作り植えつれば
秋冬は蔵に収めて
心のままに用うるが如し

春より秋を待つ程は
久しき様なれども
一年の内に待ち得るが如く

此の覚りに入って
仏を顕す程は
久しき様なれども
一年の内に顕して
我が身が三身即一の仏となりぬるなり

此の道に入ぬる人にも
上中下の三根あれども
同じく一生の内に顕すなり

上根の人は
聞くにて覚りを極めて顕す

中根の人は
一日、一月、一年に顕す

下根の人は
延びゆく所なくてつまりぬれば
一生の内に限りたることなれば
臨終の時に至りて
諸の見えつる夢も覚めて
うつつになりぬるが如く
只今まで見つる所の
生死・妄想の邪思(ひがおも)い
ひがめの理(ことわり)は
あと形もなくなりて
本覚のうつつの覚りにかえりて
法界をみれば皆寂光の極楽にて
日頃賎しと思いし我が此の身が
三身即一の本覚の如来にてあるなり

妙法蓮華経の体は
我が心性の百蓮華
されば我が身の体性を
妙法蓮華経と申しける
経の名にてあらずして
我が身の体にてありと
知りぬれば
我が身法華経にて
法華経は我が身の体をよび顕し給う
仏の御言にてこそありければ
やがて我が身
三身即一の本覚の如来にてあるものなり

かく覚とれば無始よりこのかた
今まで思いならわしし
ひが思いの妄想は
昨日の夢を思いやるが如く
あとかたもなく成りぬる事なり