るるの日記

なんでも書きます

仏教史研究・十八円満抄・1

2021-07-11 16:41:58 | 日記
問うていわく
十八円満の法門の出処如何

答えていわく
源、蓮の一字より起これるなり

問うていわく
十八円満の名目如何

答えていわく
一に理性円満
二に修行円満
三に化用円満
四に果海円満
五に相即円満
六に諸教円満
七に一念円満
八に事理円満
九に功徳円満
十に諸位円満
十一に種子円満
十二に権実円満
十三に諸相円満
十四に俗諦円満
十五に内外円満
十六に観心円満
十七に寂照円満
十八に不思議円満

問うていわく意如何

答えていわく

蓮の五重玄とは
蓮をば華因成果(げいんじょうか)の義に名く
蓮の名は十八円満の故に蓮と名く

一に理性円満いわく
万法悉く真如法性の実理に帰す
実性の理に万法円満す
故に理性を指して蓮と為す

二に修行円満いわく
有相・無相の二行を修して
万行円満す
故に修行を蓮と為す

三に化用円満いわく
心性の本理に諸法の因分有り
此の因分よって化他の用を具す
故に蓮と名く

四に果海円満とは
諸法の自性を尋ねて
悉く本性を捨て
無作の三身を成す法として
無作の三身に非ずこと無し
故に蓮と名く

五に相即円満いわく
煩悩の自性全く菩提にして
一体不二の故に蓮と為す

六に諸教円満とは
諸仏の内証の本蓮に
諸教を具足して
更に闕減(けつげん)なきが故に

七に一念円満いわく
根塵相対して
一念の心起こるに
三千世間を具するが故に

八に事理円満とは
一法の当体而二不二にして
闕減なく具足するが故に

九に功徳円満いはく
妙法蓮華経に
万行の功徳を具して
三力の勝能あるが故に

十に諸位円満とは
一心を点ずるに
六即円満なる故に

十一に種子円満とは
一切衆生の心性に
本より成仏の種子を具す

十二に権実円満いわく
法華実証の時は
実に即して権
権に即して実
権実相即して闕減無き故に
円満の法にして既に三身を具するが故に、諸仏常に法を演説す

十三に諸相円満いわく
十一の相の中に、皆八相を具して
一切の諸法常に八相を唱う

十四に俗諦円満いわく
三千世間の本性、常住不滅なり。本位を動せず、当体即理の故に

十五に内外円満いわく
非情の外器に
内の六情を具す
有情数の中に
非情を具す

十六に観心円満とは
六塵六作常に心相を観ず
更に余義に非るが故に

十七に寂照円満とは
法性寂然はるを止と名く
寂にしてしかも照らすを
観と名く

十八に不思議円満いわく
詳しく諸法の自性を尋ねるに
非有非無にして
諸の情量を絶して
三千三観、寂照等の相無く
大分の深義本来不思議なるが故に
名けて蓮と為るなり




仏教史研究・南条時光の純粋な信仰と功徳

2021-07-11 15:30:27 | 日記
南条時光

日興上人が謗法の山となった身延を捨てて、河合の由比家に下られたのを、自宅の持仏堂に招き、さらに自分の領地内の大石が原に、大石寺の基である大坊を建立し寄進された大旦那

時光の父、南条兵衛七郎は駿河国富士郡上野郷の地頭であったが、1265年3月、幼い9人の子供を残して亡くなった

日蓮大聖人は入信まもない7歳の南条時光のために、鎌倉から富士へ来て墓参された。時光16歳の時、初めて日蓮大聖人のもとへ御供養の品々をささげた。また深い御慈愛のこもったお手紙をいただいたのであった

1275年正月、日蓮大聖人のご名代として、南条殿の墓参にみえた日興上人と初めて会われた。16歳の時光と30歳の日興上人との間に法談がかわされ、時光の信仰はいっそう堅いものになった。そして富士周辺に大折伏を展開した。多くの信者をみて、駿河方面の信者の中心者と、日蓮大聖人より認められていた

時光らの折伏が進むにつれ、三障四魔は競い起こり、1279年9月には富士下方の熱原で、信者20人が捕らえられるという大法難が起こった

時光は信者の中心として、迫害を受けた僧・俗を護ったが、南条家にも幕府の圧力がかかり、不当に重い税金をかけられ、苦しい生活を送った。しかもその苦しい中から日蓮大聖人への御供養は怠らず、純真に信心を貫いた

若くして信心に励み、護法のために偉大な功績を立てた南条時光。後には左衛門尉に任官され、十数人の子供たちに囲まれた幸せな家庭を築いて、功徳の姿を示している

時光にあてられた日蓮大聖人の御書は、現在三十数通ある

仏教史・熱原法難・極端にかたよった信仰・逃げないのは勇敢だが役には立たない

2021-07-11 13:48:58 | 日記
熱原法難

天台宗竜泉寺は名の知れた大寺だった。日興上人の大折伏により、竜泉寺僧・日秀、日弁、日禅をはじめ多くの人々が改宗していくのをみて、竜泉寺院主代・行智は驚き、これらの人々に天台宗にもどることを迫った

日秀、日弁、日禅の3人は逆に行智の迷妄を開かそうとし、ついに行智の怒りは爆発😡💣️⚡️有無をいわさず追放を申し渡した

こうしたなかで熱原では、百姓・神四郎、弥五郎、弥六郎などの熱烈な信徒が多数活躍するようになった

行智は対策を考え、神四郎の兄、弥藤次は神四郎と合わず、大いに法華誹謗していたので腹心とし、武士とも組んで、迫害の時を伺っていた

しかし、法華信徒は意志強固で、ますますその信仰を固めるのみであったから、行智の行動はいよいよ凶暴化し、4月には信者四郎坊を傷害し、8月には弥四郎の首を切ったのである。しかもその罪科を日秀、日弁、法華信徒に転化するという所業に出た

1279年9月21日、日秀たちが稲刈り中、行智派は大挙して弓馬をもって百姓に乱暴の限りを尽くし、神四郎、弥五郎兄弟以下20人を縛ると、政所へ引き立てて行った

急を聞いた日興上人は、この行智の邪策を憎み、信徒の悲嘆を思いやり、ただちに身延へ馳せ、日蓮大聖人の旨を受け、竜泉寺申状をしたためられ、日秀、日弁を従えて鎌倉に馳せ、問註所へ訴願した

しかし取り調べにあたったのは、日蓮大聖人を虐げ、命まで奪おうとした平左衛門頼綱であり、裁かれる者は頼綱が憎む、法華の信徒であるために、理を非に曲げるのは当然だった

頼綱は神四郎、弥五郎ら20人を自邸の庭に引き出し、「汝ら速やかに法華の信仰をやめて念仏を唱えるならば、即座に罪科を赦してやろう。否と申せば厳罰に処す、よくよく思案を定めて返答いたせ」と厳しく申し渡した

神四郎は「私どもに法華経を捨てよと仰せられますが、身を殺しても法を護るのが私どもの本業でございます」ときっばり言い放ち、しかも法義を説いて逆に改宗を求めるという不敵な態度に、頼綱は烈火のごとく怒った💢😠💢

頼綱の次男は矢をつがえて、神四郎たちをめがけて矢を次々と放ちはじめた。しかし少しも改宗の色を見せないので、再び牢の中へ幽閉

日興上人は、即座に急使いを立て、この趣を身延へ報告。これを聞いた日蓮大聖人は深く感嘆され、早速御返事が送られてきた。その内容は
「神四郎たちは、釈迦多宝十方に護られて、寂光の宝刹に安住するであろう。だが平左衛門頼綱は、先に日蓮を虐げて国難をひき起こしている、その前途未だ危きにもかかわらず、いまだ大罪を重ねるとは、その末路はまことに憐れむべきである」
(平左衛門頼綱父子は、その14年後、謀叛を起こし、同じ邸で殺されている)

神四郎たち20人は、ただ一心に題目を唱えて、信仰ますます強盛であったが、1279年10月15日、神四郎、弥五郎、弥六郎三兄弟は、刑場に引き出されて、斬罪に処せられ、残る17人は追放された

🤔るるの私見
醜い宗教弾圧だ
だが、、
本心を隠して「法華経を捨てます」と言って、念仏を唱えることを選択していたら、(やってもいない)罪科を赦され死なずにすんだのだ

それができないような心境は、極端な偏りではないだろうか?釈尊の説く中道ではなく、極端に偏った心の状態。中道であれば状況判断し、心にもないことをスラスラと言葉にして無罪放免を勝ちとり、、また法華経行者として生きていけたかもしれないのに。


仏教史研究・謗法の山で闘わず、逃げるは恥だが役に立つ

2021-07-11 13:06:07 | 日記
原殿御書
日興上人が身延を離山されるにあたり、弟子の原殿に手紙を送られていた。その当時のいきさつ、日興上人の心境等が述べられている

「身延沢をまかり出で候事、面目なさ本意なさ申し尽くし難く候へども、打ちかえし案じ候へば、いづくにても聖人の義を相継ぎまいらせて世に立て候はん事こそ詮にて候へ」

本門弘道の大導師として、身延山久遠寺別当として、大使命感に立っていた日興上人とその一門以外は、五老僧も地頭もすべて師敵対謗法の者と化した

とはいえ、身延を捨て離山することは、日蓮大聖人から身延を賜った日興上人にとっては耐え難いことである。だが、日蓮大聖人の仏法を曲げることはなおさら耐え難いことである

しかしながら、身延に対し日蓮大聖人は、絶対的法域とのお考えは毛頭なかったことであり、そのことは
日蓮大聖人の身延相承書に
「最勝の地をたづねて」
とあるように、戒壇を建立すべき場所が身延でないことは、はっきりしていることであるから、むしろ離山は当然のことであった。むしろ未来に向かっての洋々たる出発であったといえる

「御弟子ことごとく師敵対せられ候。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当たりて覚え候へば、本意忘るること無く候」これが日蓮大聖人の正義を知っている日興上人の身延離山決意である

仏教史研究・身延離山

2021-07-11 12:24:10 | 日記
■日蓮大聖人は1282年、六老僧を定められた。六人の連名の順序は入門順に記されていて、上下の差別はない
むしろ上を押さえて、下をあげるという真意を伺うことができる。すなわち日興上人が第二祖として付属を受けたからである

蓮華阿闍梨・日持
伊予公・日頂
佐土公・日向
白蓮阿闍梨・日興
大国阿闍梨・日郎
弁阿闍梨・日昭

日蓮大聖人は、日興上人へ戒壇建立の遺命、身延山久遠寺の別当、一宗の総貫主の付属をなさり
1282年10月13日に入滅された

■日興上人は、遺命どおりに身延へ入山され、一宗の中心に立たれたが、五老僧たちは身延へ登山もしなかったのである

1285年頃、日向が一人墓参りのために身延へ登山した。日興上人は喜んで、特に学頭職にしてねぎらわれた。
しかし日蓮大聖人の仏法を、あまり知らなかった日向は、鎌倉の五老僧たちの軟風を、地頭・波木井実長(はぎりさねなが)にふきこをだのである

そのため実長は

神社に参詣
謗法の福士の塔の供養
九品念仏の道場に供養
釈迦仏像の造立

など四箇の謗法を重ね、日興上人のいましめも聞き入れようとしなかった

■ここにおいて「地頭不法な時には、日蓮の魂はこの山に住まず」の御遺言のままに、日興上人は謗法の山と化した身延を離山される決意を固めた

1289年身延を離山された日興上人は、上野にいる南条時光の請いに応じて、南条家の持仏堂に入られた
1290年10月、ここより半里を隔てた大石が原に大坊が完成した。ここに【弘安二年十月十二日御建立の本門戒壇の大御本尊】をはじめ、一切の霊宝が安置された