日興上人の立場
幼少で父が亡くなり、母方の由比家に養われた。成長し実相寺に入り、出家。日蓮大聖人が実相寺に入られたおり弟子となり、後に白蓮阿闍梨と法名をたまわった
日蓮大聖人にお供して、鎌倉へ入り、伊東流罪のおりにも、常に随って御給仕申しあげ、伊豆に佐度に折伏の縁を結ばれて、後年まで日興上人の法縁に浴する者が数多くできた
熱原法難には、日興上人の直弟子の日秀、日弁が活躍したが、ついに神四郎等三人が斬罪に処せられた
このとき日蓮大聖人は、日興上人の格別なる化導、活躍をほめられ、本門戒壇の大御本尊を図顕され、日興上人に付属された
1282年、日蓮大聖人ご入滅のおりには、その記録を残され御骨を奉持して身延山へ入り、御遺状どおり身延山の別当職に就任。他の五老僧はおのおのの本国へ引き上げて行った。その後は誰一人、身延へ来る者もなく、自然に一切を日興上人におまかせであった
三回忌を過ぎて民部日向(みんぶにこう)が身延に登山してきたので、日興上人は学頭職につけられた
しかし当時門下は、硬・軟に分かれ、信心、修行、教義等すべて日蓮大聖人のご在世どおりに実行する厳しい日興上人に対し、五老僧は世間に迎合して、天台沙門と名乗ってまで、幕府の迫害を逃れようとしていた
身延の地頭・波木井氏は次第に日向の軟風に染まり、数々の謗法をあえてするにいたった。日興上人は何度も波木井を諌めたが、いっこうに聞き入れず、このままでは日蓮大聖人の正義を顕すことが出来ないと熟慮した末、ついに1289年身延山を出発された。大石が原に本寺を選定され、御大坊ができあがった