るるの日記

なんでも書きます

地方史研究・近代の耕地・地主的土地所有制度を基調とした農村問題の解決

2021-07-02 12:34:56 | 日記
明治32年、耕地整理法が制定
ヨーロッパの耕地整理の課題、錯綜し細分化した耕地をまとめ、畜力利用に合理的な耕地形態を生み出すこと。その思想が日本にも導入された

明治42年、耕地整理法は改正され、「耕地整理は土地の農業上の利用を増進する」こととし、実質的に展開していった

地主的土地所有制度を基調とした、水利や農地を巡る矛盾など農村問題の解決策として打ち出された農業政策に導かれ、国土に刻まれてきた耕地というのが、近代の耕地の社会的特徴である

地方史研究・小貝川中域・鳥羽谷原を開発する→台風で耕地に湖が出現してしまう

2021-07-02 12:12:47 | 日記
小貝川中流域、現在の茨城県真壁郡明野町付近にあった鳥羽谷原は、〈常陸国風土記〉に記された騰波江(鳥羽淡海)の名残の、近世の姿だった。鳥羽谷原は近世初期に小貝川右岸の【西谷原】から開発された

左岸の【東谷原】は、周辺の村々の秣場(肥料や飼料を採る土地)という理由で開発されず、本格的な開発は享保九年(1724)以降だった。開発に着手した背景は、享保七年7月幕府が揚げた新田開発奨励の高札にある

開発された東谷原であったが、度重なる水害のため、ほどなく旧状に復してしまった。開発地は耕作不能な手余地となる

近世後期は新開より再開発に力が注がれるようになる
明治2年には享保期に残された部分に開発の手が及ぶ。開発は【朝政御一新】を契機に、米穀の高値や人口増加に伴う問題を解決しようとするものであった

【明治3年東谷原全域に開発の手が及んだ】

その後もこの地域は、明治43年、昭和10年、13年に大きな水害に見舞われた。さらに昭和61年8月4日から5日未明にかけて茨城県を通過した台風10号による水害では、決壊した小貝川左岸に、騰波江を彷彿とさせる一大湖沼が出現した







地方史研究・【近世の耕地】・水に弱い新田

2021-07-02 11:36:25 | 日記
■新田開発時代
戦国時代後期から近世にかけては、耕地が飛躍的に増大した。この田畑造成事業を新田開発という
全国総石数が約1.7倍伸びた

近世以前は開発の手が及ばなかった台地、扇状地、山麓、低湿地、沿岸部、湖、沼が、干拓・埋立によって耕地となった。これらの開発を可能にした背景には、全国統一権力の確立と土木技術の進展がある

■新田開発の種類
幕府・藩など【領主側】が行う
※代官見立新田
※藩営新田
※藩士知行新田
※土豪開発新田

★町人資本により行う
※町人請負新田

★村が行う
村請新田
百姓寄合新田

■新田開発の仕方
村内の耕地の周辺に小規模な耕地を開き、切添新田を主流に、耕地を増加させていった
開発地が離れる場合は、出新田といった

未開発地に新しい村が成立する場合が村立新田で、成立した村を新田村という。村立新田は周辺の村々や他領から移った農民によって開発されたため、開発者の人名や出身地の名がつけられた

■新田開発の抑制
近世後期になると、秣場(肥料、飼料採取するための土地)の確保や本田重視のため次第に新田開発は抑制された
低湿地などでは開発されても旧状に復す耕地も多かった
耕作が放棄された手余地を再開発することを「起し返し」といい、新田村よりさらに当たらしい村が開かれる地域もあった

■開発耕地の特徴
★【路村型】
※耕地、集落、道などを計画的に設定
※中心となる道は直線に引かれた
※道両側に屋敷地・家屋。その背後に短冊状の耕地が配される

★【散村型】
屋敷地、家屋が点在

★低湿地の堀上田、急傾斜地の棚田なども新田開発の成果である

★一筆(一区切りの田畑)の面積が、古村の耕地割より大きい

★耕地所持は、古村ほど激しい格差は見られず、均等に配分された

■新旧耕地の違い
形状や大きさ
旧耕地との不整合
土地の高低
などで識別できる場合が多い

ひとたび水害が起こると、いちはやく冠水する耕地は、かつての河道や湿地。そこに開かれた新しい耕地は、古い耕地に対して安定性に欠ける脆弱な面を持つ





地方史研究・【古代の耕地】・弘福寺領讃岐国山田郡田図(香川県高松市東南部)

2021-07-02 10:30:52 | 日記
■天平七年(735)の弘福寺領讃岐国山田郡田図(現在の香川県高松市東南部を表現した地図の、【弘福寺領の状況】を描いたもの)
を見ると

★樋蒔田等(地名の付いた田)
畠成田
今畠墾田
人夫等田・家・畠
などが記入

★地の種類は
口分田
位田
職分田
功田
賜田
公田
などの田と

園地、宅地
などである

★田は基本的に国家管理下の耕地で土地税を納めなければならない(給与として給付される職分田を除く)

園地、宅地は私有に近く、土地税は課せられない
神田、寺田も私有地の色彩が強い

★山田郡田図に表記された田は寺田

寺が農民に、賃租に出して直米を収取していた
【賃租・農民が寺に代価を払って土地を耕す】

「租稲」が書かれており、国から租税が課せられていた

★畠の種類
田墾得→収穫のあった畠の部分
見畠→現作畠
三宅之内→倉、井戸
悪不沽→「悪し、売らず」悪い土地なので賃租に出さなかった土地

寺は田墾得、見畠から直米(に変えて)収取

畠には「租稲」が記されていないことから、国に税を支払う必要はなかった

畠は園地、宅地に相当する扱いの土地。耕地も含まれていたが、宅地、三宅之内の敷地のような土地も含まれていた