決めるのは自分だけど、何でそう決めたのかの根底を観ていきたい。曖昧な思いを言葉にのせ文章を綴ることは、まさに決めるの連続である。
まず曖昧な思いが湧くという働き、働きかけがある。思いがわくのは今ではない。過去からわいては消え、わいては消えを繰り返していたようだ。なぜ完全に消えず、わいては消えを繰り返すのか?それは思念を行いに移さないからなんだと思う。だから私はこうやって文章化し、思いを浄化、完全燃焼、成仏させたい。そういう意味で、この文章は言霊からの自動書記の一面がある
さっき、わいた思いは十如是の最後から2番目の如是報。私個人としては「他への影響力」だと解釈している
物事を決めるときって、純粋に自分だけの意思の力だけでは決めてはいない。何らかの他者からの影響に自分の思いをからめている。
「人からどう思われるか」
「人から変に思われたくない」
「人に認められたい」
「あの人のようになりたい」
「あの人のような考え方いいなあ」「あんな生き方いいなあ」
このような他者からの影響力が、自分の本性と近いほど、余計な力はいらず、余計な気も使わず、余計な思考も使わず自然にいられる。
私はダメな自分という自己否定感が強かったから、本性と離れた理想の人間像に憧れを持つ傾向だった。分不相応な人格形成は、挫折を繰り返して、やっと
「もう、無理。私は悪人でーす」
と開き直り、楽な方向へ行くようになる。「義務ならやるけど、やってもやらなくても、どちらでもいいのなら、やらない。で、やりたいことをする」「気持ちが落ちつかないなら、義務的な、利他的なこともやる」というスタンス
宗教的には「利他」「感謝」を説くが、無理にはやらない。自分の気持ちが一番大切だから。「利他をさせてくれ!したい」と本性が叫んだらやる。その叫びは気分に現れ、落ち着かなくなるからわかる。やるまで落ち着かないから自分の気持ちをよくするために利他をやる
感謝に関しては、「有難い」ではなく「こんな感謝もできない、悪人の私に申し訳ない」という気分になって現れているのかもしれない。で、こんな私はみーんなの苦痛を背負いたいという気分がある。人の苦痛や寂しい感じを見ておられないからだ。他人のその姿を見なければならないならば、他人の苦を私に背負わせてと切に願う。要するに過剰な共感が、私の中で辛い妄想に膨らむからだ。本当は苦を他人に代わって背負うなんて、お節介で人のためにはならない。
何のために私は宗教を研究しているのか。まだまだ何にもわかっていないではないかと気づく
私以外の他者が辛いときは、学んだ法を説けばいいんだ。今まで自分のためだけに学んだことを、今からは人に説いて、楽を与え苦を抜くという実践をしていきたい。これは義務からではなく本性の叫び。。しかし反面に「私のような人間が、そんな大それたことできない」という魔の通力が同時発動する。これは私の癖なのだ。だから受動的、自らは動かない。やはり、、変わりたい、もっと命のように素直に、ひたむきにななりたい、、
文章を書いているうちに、私の本性の叫びを、こうやって知ることができました。感謝!