るるの日記

なんでも書きます

ベルサイユのバラ🌹君主制から共和制へ!国王とマリーアントワネット断頭台への道

2021-11-27 14:42:22 | 日記
国王一家が帰りついたパリでは
「国王が祖国を捨てて逃げ出すのか!」
「もう国王なんかいらないぞ!」
「王政廃止しろ!」
「王政廃止して共和制を!」
「君主制を廃止して共和制を!」
「国王と王妃を死刑に!」
の声が高まる

5日間の逃避行の恐怖は、マリーアントワネットの美しかったブロンドの髪を、老婆のような白髪に変えてしまっていた

■ロベスピエール
「そろそろ本気で共和制を考える時がきたようだ。明日の議会はあれるぞ。王政派の連中にひとあわふかせてやらねばならん」

当時フランスでは、平民の中にも財産を持った裕福な平民と、貧しい民衆との差があらわれていた。財産のある平民はブルジョワ階級と呼ばれ、彼らはまだ立憲王政によって革命を進めていくことしか考えてはいなかった

貧しい民衆の中にしだいに王政廃止。共和制を望む声が高まり、この貧しい民衆と、ブルジョワ階級との対立は、議会内における議員同士の深刻な対立となってあらわれていた

そんな中、共和主義をおし進めて、終生変わらず貧しい民衆の味方であったのがジャコバン党の若き指導者ロベスピエールであった

■逃亡事件をきっかけとして、革命は急遽に新しい方向へ舵をとることに。共和制!
それは国王とマリーアントワネットにとって、ただひたすら断頭台へのまっすぐな道であった

ベルサイユのバラ🌹国王たち家族の社会的制裁

2021-11-27 14:19:29 | 日記
■フェルゼンが国王一家6名の逃亡者を手助けしていたが、ボンディに来た時、国王はフェルゼンを帰した。フェルゼンに危険が及ぶことを避けるために。フェルゼンはベルギーに亡命

■翌朝
パリで国王一家の逃亡がばれる
パリの中の門は閉ざされ
フェルゼンの首には賞金がかけられ、国境へつづく街道には国民衛兵が差し向けられた

■国王たちは、最初の騎兵隊が迎えてくれるソム・ヴェスル橋に到着したが、騎兵隊の姿はなかった。ものものしい騎兵隊たちの姿は、村人に不信感をひきおこし、兵士たちは持ち場を引き上げざるをえなかったのである

■そして村人たちが、国王の乗る珍しい馬車を見てザワザワしだす。村人の中にはジャコバンクラブ員で熱烈な革命家サン・ムヌー宿駅長のジャン・ドルーエ(28)の姿があった
ドルーエは、国王一家だと気づきヴァレンヌへ先回りし、国王の馬車を止めさせ、旅券の確認をし、国王だと見破り、国王一家を市長の家に

市長の家にパリの国民議会からの「国王一家がテュイルリー宮を脱走して国境へ向かったので、見つけしだい捕まえて送りかえすように」との命令書が届いた

市長の家から出た国王一家は民衆にもみくちゃにされ、罵詈雑言をあびせられ、子供たちは恐がり泣いた。しかしアントワネットは泣かない

「許さない
民衆の誰一人もフランス王妃
マリーアントワネットの涙を見ることは、許さない」

地獄のようなパリ帰還がはじまった
途中の町々での民衆からの耐え難い侮辱と脅かしに身も心もズタズタになり、国王一家がパリへ帰りついたのは、3日後の6月24日であった


ベルサイユのバラ🌹6人の逃亡者

2021-11-27 13:42:24 | 日記
■逃亡計画
偽の旅券と馬車を用意し国王一家をパリから連れ出す。シャロンにつけばそこから国境まではブイエ将軍の管轄だから、将軍一家を守る

1971年6月19日夜、フランス国王一家たちの逃亡の日と決められた
コルフ夫人の名で旅券をとり
国王は、コルフ夫人の従僕
王妃は、子供達の家庭教師
ということにしてフランスを脱出する手はずであった

■フェルゼンの逃亡計画の具体的指示

★コルフ夫人に頼んで夫人の名で旅券をとってもらう
夫人1
子供2
従者2
家庭教師1
合計6人分

★大型のベルリン馬車と、目立たない辻馬車1台を注文する
★変装用の服を一揃い注文
★食料の準備
★軍隊を動かす金をフェルゼンの財産を抵当に借り
★護衛の人材選び
★あらゆる連絡、打ち合わせ

★シャロンから先はブイエ将軍の指示
ソム・ヴェスル橋に40名の騎兵配置
サン・ムヌーに40名
クレルモンに40名
ヴァレンヌに60名の軽騎兵
最後にストネーでロワイヤル・アルマン連隊が国王ご一家をお迎えして国境まで

■出発は1日延期され、6月20日
国境にいたる村々にブイエ将軍指揮下の兵隊が配置され、オーストリア政府は兵隊をフランスとの国境あたりに集中させて、フランス国王数えないを迎える準備を整えた

午後10時
二人の子供をフェルゼンが連れ出したあと、アントワネットを部屋に戻り、国王の謁見がすべて終わってから宮殿を脱出するため待機

午後11時半
すべての謁見が終わり、アントワネットと国王は別々にテュイルリー宮を脱出。子供達とフェルゼンの待つエシェル通りへ向かった

※国王
※王妃
※二人の子供
※国王の妹エリザベス内親王
※王子の教育係トゥルゼル夫人
6人の逃亡者を乗せ、フェルゼンが手綱をとる辻馬車は、真夜中のパリを駆け抜けて行く

ベルサイユのバラ🌹フランス国王・ベルサイユからパリへ移され、そしてオーストリアへの逃亡を決めさせられる

2021-11-27 13:03:00 | 日記
★1789年

■民衆の要求の前に、ついに国王一家はベルサイユを永久にあとにし、パリへ移される。国王一家が移されたテュイルリーみやこは、ルイ14世以来150年の間使われずにいた荒れ放題の宮殿だった

■マリーアントワネット
「男にならねば!これからは国王陛下のかわりに私が男にならねば。私は革命なんか認めない。絶対に!
君主として国民を支配する権力を私は神から授かったのだから!」

マリーアントワネットは知らなかった
歴史の歯車(自由と平等の新時代)を逆に回転(封建的)させようとする者は、かならず滅びるのだという真理を、アントワネットはついに理解することはできなかった


★1790年

■1月パリのジャコバン修道院を本部とし、約200名の議員を集めて
【革命友の会(ジャコバンクラブ)】が発足
ジャコバンクラブにおいて、主導権を強めつつあったのが、マクシミリアン・ド・ロベスピエール議員だった

■8月、ナンシーにおいて、兵士たちが反乱を起こしてしまい、王党派のブイエ将軍は、抵抗した兵士たちに絞首刑という過酷な処分をしたため、再び民衆の怒りが爆発

しかも、翌年4月には革命側を裏切り密かに王室についていたミラボー伯爵が死去
国王とミラボー伯爵との秘密の取引きが革命委員会にばれたら国王の命の危険さえある。国王たちは、王后陛下の故郷であるオーストリアに逃亡することを決断した

ベルサイユのバラ🌹マリーアントワネット怒りを爆発させた民衆の前へ出る

2021-11-27 12:32:33 | 日記
❤️みながベルサイユを捨てた
そんな悲しみのマリーアントワネットのもとにフェルゼンが戻って来た
「ともに死ぬために戻ってまいりました」

■新しいフランスはなおいくつかの問題をかかえたままであった
革命は起こったものの、パリではあいかわらず深刻な食料不足が続いていた

その上ベルサイユでは革命に対抗するため、新たに軍隊がよびよせられ、10月1日パリ市民の飢えをよそに華やかな歓迎の宴が催された

この宮廷の振る舞いは、台所を預かる貧しい女性たちを踏みにじり、その怒りを爆発させるに十分だった

■1789年10月5日
6000人をこす女たちの大集団が、ずぶ濡れになり、泥まみれになり、飢えと激しい怒りにふるえながら、ベルサイユへの壮絶な行進を開始
そして女たちの後ろから、ラ・ファイエット将軍ひきいる3万の国民衛兵が!
ラ・ファイエット将軍の説得によってその晩、民衆はベルサイユ宮殿をとりまいたまま、おとなしく一夜を明かした

■10月6日
民衆が宮殿に攻め入ってきた
「王妃の部屋はこっちだ!」
「殺れ、やっちまえ!」
「王妃はどこだ!あの売女!」
「死刑にしろ!」
「王妃をバルコニーへ出せ!」
「王妃を出せ!」

★マリーアントワネット
「民衆をしずめねばならない、、出ましょう」
アントワネットはバルコニーに出て、ドレスのすそを両手で持ち、それはそれは優雅なお辞儀をした、、

そのとき民衆は

「王妃ばんざい」
「生まれながらの本物の女王なんだ」「王妃ばんざい」
の声があがり拍手がわきおこった