作者の「紫式部」というのは女房名(宮中や貴族の家に仕えた女性)であるが、奇抜な名前である。紫と色の名らしきものを冠せた女房名はほかに見られない
■歌人家系
紫式部は、北家藤原氏の家系。藤原良房(藤和冬嗣の子)の弟・良門を祖とする。曾祖父・兼輔が中納言になっているが、これは例外で、代々受領・諸大夫の家
※曾祖父・兼輔は、受領歌人らと交際し、これらの後援者でもあり、古今和歌集の歌人であった。
※祖父・雅正も歌人。雅正弟も。
※父、為時と二人の叔父も歌人
母方の祖父も、曾祖父も歌人
紫式部が物語という未開拓な分野に容易に入ることができた1つの条件が歌人家系である
■思考力は、素直じゃなくなる
生まれ年は970年説、973年説がある。中流貴族の一般教養として書と和歌があるが、少女時代の紫式部の和歌は、独特で沈痛な味わいがあった。
漢詩文は、当時の女性の教養としては特殊なものだった。「女性は漢字や漢文は読むべきではない、読むとその女性は不幸になる」と言われていて、紫式部が漢籍を読むことを侍女はとめたが、歌人の家風としては、特にそれを制することはしなかった。
紫式部が物語を書き出してから、女性としては珍しく時々批評的な文章を書いている。その文章には、かなり強靭な思考力が現れている。思考力は、漢籍などを読むことで磨かれたのである。
この磨かれた思考力は、結婚に踏みきることへの躊躇、人一倍人間の不幸を考えることなどにも作用し、素直でない性格を形成した。。ということにもなる。
■やりきれない越前生活
996年、紫式部24歳のとき、越前守になった父に伴い越前への旅をする。琵琶湖を船で行き、塩津に出て、北国街道の山を超え、敦賀のあたりでまた山を超え、越前平野の国府(福井県武生市)にたどりついた。
冬になると雪の深い越前の日々の生活は、紫式部には何の感銘も覚えなかった。
平安京の生活を捨てての地方生活は、何の期待もなかった。妻を伴っていなかった父の身辺の世話をするために地方へついてきたが、やりきれなくなった。紫式部は帰京した。
■不思議な晩婚
藤原宣孝との結婚は、越前から帰京して間もなくであった。998年、紫式部26歳になっていた。
当時の女性は14、5歳で結婚するのが通例であったので、非常に晩婚であるが、夫の宣孝も45歳だった。二人はこれが初婚ではなかったのかもしれない。
紫式部には二十歳前後の時期に、不幸な男性関係があった。なぜならこの人の日記、物語に現れている心理状態から、その心理状態に陥った何らかの経験があると考えてみると、「不幸な男性関係経験」が背後にあるとしか思えない。
■男性経験を歌で現している
家集の歌(個人または家の和歌)に、それにふれていると思われる贈答の歌がある。二十歳前後のことである
【方違え(かたちがえ)に渡りたる人の、
なまおぼおぼしきことありて、
帰りにけるつとめて、
朝顔の花をやるとて】
(方違えのためにやってきた人が
はっきりしない態度で
帰って行ったその朝早くに
私は朝顔の花を贈ろうと思って、、)
【おぼつかな、
それかあらぬか
明けぐれの、
そらおぼれする、
朝顔の花】
(はっきりしませんね
そうであったのか、なかったのか
まだ朝暗いうちに
ぼんやり咲いている
朝顔のような、今朝の顔は)
【返し、手を見わかぬにゃありけん】
(あの人からの返歌では、誰の筆跡か見分けがつかなかったという)
【いづれぞと、
色わくほどに
朝顔の、
あるかなきかに、
なるぞわびしき】
(あなたが誰の筆跡かと見分けているうちに、朝顔の花のように萎えてしまいそうになるのがわびしい)
「なまおぼおぼしきことありて」とは、判然としない状態を言う
これは、紫式部の男性経験である
方違えに来た男が、この人に熱い思いを打ち明け、さらにはもっと深入りした関係まで結んでしまった、、ということがあったけど、でも、、あの人の言葉とか、行動を思うと、本気なのか、ゆきずりの戯れなのか、、見定めかねる
と、読める
それにしては、男が返しの歌で、昨夜の今朝、朝顔を見ながら、誰からの歌かわからない。はて?と言っていることは、あまりなとぼけぶりである。男にとってはせいぜい、この人の気をひいてみる程度のやりとりがあったにすぎないのである。
この歌でわかるのは、紫式部は男性をかたくなに拒んで近づけようとしないほどの男嫌いではなかったということである