るるの日記

なんでも書きます

源氏物語研究「藤原道長の妾紫式部」

2022-11-05 18:22:27 | 日記
★尊卑分脈の紫式部の項に
「道長妾云々」とある

★紫式部の日記に
「すき者と名にし立てれば見る人の
折らですぐるはあらじとぞ思う」とからかった藤原道長が、夜、紫式部の局を訪れた
と書いている

★新勅撰和歌集・恋歌【藤原道長と紫式部の贈答歌】として載せている
「渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと開けど、おそろしさに音もせで、あかしたるつとめて、夜もすがら、水鶏(くいな)よりけに、なくなくぞ、まきの戸口に叩きわびつる」

返し
「ただならじとばかり叩く水鶏ゆえ、あけてははいかにくやしからまし」
この歌のときには戸を開けなかったとはいえ、紫式部が貞節であったのかは証明しがたい。むきになって貞女に仕立て上げる必要はない。
むしろ、藤原道長の妻倫子や、藤原道長の妾大納言の君に対する紫式部の言動に微妙なかげりがあることを見るならば、局の戸を開けたこともあったと見る方が自然である。

源氏物語研究「栄華の座にある者の苦杯」

2022-11-05 18:00:22 | 日記
紫式部は宮仕えに出たことによって、当時天下の第一人者の姿をまのあたりに見た。と同時にその人々の苦しみ、哀愁のあることもその目で見た。

一条天皇の崩御である。藤原道長にとっては一門の権勢確立の時期の到来であったが、一条天皇の中宮であり、道長の娘彰子にとっては、わが子の立太子を喜ぶよりも前に、涙ながらの日々を送った。
中宮の涙と、その背後の政治的軋轢のどす黒さを、紫式部は目の前に見ていた。
同時に栄華の座にいる者が、その栄華ではどうにもならない不幸と悲しみの苦杯を味わっていることんも、目の前に見ていたのである。

これらの経験が、源氏物語に単なる絵空事ならぬ生々しい息吹を与えた。この宮仕えの経験なくしては源氏物語は描ききれなかったであろう。

源氏物語研究「家族の将来のために、紫式部の宮仕えが始まる」

2022-11-05 17:38:57 | 日記
紫式部が宮仕えに出たのは1005年頃。推定33歳。初出仕の日は12月29日。
当時、中宮彰子(藤原道長娘)は、11月15日に内裏が焼失したので、一条天皇とともに、東三条院に移っていたから、そこに出仕した。

天皇と中宮は、年明けて3月4日、一条院に移る。一条天皇は内裏が完成してからも一条院を動かず、1011年崩御までここにいた。
中宮は1014年、高倉邸に移り、紫式部の出仕場所も、ほぼこの中宮の御在所であった。

【はじめて内わたりを見るにも、もののあはれなれば、
身のうさは、心のうちにしたひきて、いま九重に思い乱るる】
自分を、うき身(辛いことの多い身の上)と思う気持ちは捨ててきた、つもりでいたが、気がついてみると、その気持ちは心の中に隠れていて、この宮中までついてきて、今宮中で幾重とも知れぬ物思いに、心が乱れに乱れる

というのが、華やかな宮中に出仕したときの感慨である。
【「身のうさ」は、里にいたときも、宮中に出仕したときも、それから何年もたったときも、いつもわが身につきまとっている。という。】

清少納言は、恥じらいながらも嬉々として出仕したのと違って、紫式部は沈んだ気持ちのままで出仕に踏み切った。
紫式部は、藤原道長の指示で余儀なく出仕した。父は道長から目をかけられているし、父、兄弟、娘の将来のために、「我が身のうさ」をすべて古里に脱ぎ捨てて出仕を決意したのだが、、華やかな中宮の御前に出て、改めて「身のうさ」を思いしったのである。

こんな気持ちで出仕したのだが、出仕したとなると誠実に勤務して、ほとんど晩年まで続けた
女性ばかりの世界であり、陰口はあったが、口数少なく控えめにしていた。藤原道長夫婦や中宮からも目をかけられた。何人かの仲間もできたが、その仲間は何か不幸な影を多少とも持っていた。
紫式部は、華やかさに溶け込めきれないで、逆に我が身の運のつたなさを思って暮らした。

源氏物語研究「夫を亡くし、幼い子を抱えた絶望が、源氏物語の作者を生んだ」

2022-11-05 16:42:39 | 日記
紫式部は藤原宣孝と結婚した。宣孝には、彼の子供を生んだ相手が3人いたから、紫式部だけを大切に守っていたわけではない。そういうことに関して夫婦間で口争いがあった。間もなく紫式部は女の子を生んだ。宣孝はその翌年頃、疫病で亡くなった。
紫式部が非常に晩婚のこの結婚に踏みきるに至るには、長いこと躊躇していたが、それだけにこの結婚には、生涯の人生全てを賭けて挑んだ。だが無惨にも宣孝の死で崩れた。

世の多くの女性はこの悲しみの中に座り込んで追憶に浸ることに安住してしまう。だが紫式部はそこに座り込んでいられなくなった。

「数ならぬ心に身をばまかせねど
身にしたがうは心なりけり」
「心だにいかなる身にかかなふらん、思い知れども、思い知られず」

心とは紫式部の思考、精神活動
身とは現実の境遇、境遇に即して動く情
筋道を立てて考えることもできない私の心なのだから、その心が望む境涯になろうとまでは思わない。
自分の心、せめてその心だけは平静に動いてほしいが、そうはいかない。境涯が変わってしまうと、心はそれにつれて動揺し、嘆きを持つ。どうしたら心は落ち着くのか?心とはこんなもんだと思い定めたつもりでいたが、ちっともわかっていない。人間の心、人生観というものは、いつも頼りなく動揺する、、

幼い子を抱えた紫式部の行く末は絶望だけしか見えなかった。その絶望は心がつくりだす、、

夫がもっと生きていたら、もっと身近なことで悩みもしただろう。また平凡に人生を終わりえたかもしれない。その平穏が崩れたことで紫式部は考えはじめた。平穏が崩れたことが、源氏物語をつくりあげる作者・紫式部を生んだ。源氏物語を書きはじめたのは、夫と死別してから、宮仕えに出るまでの間である。

源氏物語研究「はっきりしない男に泣く紫式部」

2022-11-05 15:52:39 | 日記
作者の「紫式部」というのは女房名(宮中や貴族の家に仕えた女性)であるが、奇抜な名前である。紫と色の名らしきものを冠せた女房名はほかに見られない

■歌人家系
紫式部は、北家藤原氏の家系。藤原良房(藤和冬嗣の子)の弟・良門を祖とする。曾祖父・兼輔が中納言になっているが、これは例外で、代々受領・諸大夫の家

※曾祖父・兼輔は、受領歌人らと交際し、これらの後援者でもあり、古今和歌集の歌人であった。

※祖父・雅正も歌人。雅正弟も。

※父、為時と二人の叔父も歌人
母方の祖父も、曾祖父も歌人

紫式部が物語という未開拓な分野に容易に入ることができた1つの条件が歌人家系である

■思考力は、素直じゃなくなる
生まれ年は970年説、973年説がある。中流貴族の一般教養として書と和歌があるが、少女時代の紫式部の和歌は、独特で沈痛な味わいがあった。
漢詩文は、当時の女性の教養としては特殊なものだった。「女性は漢字や漢文は読むべきではない、読むとその女性は不幸になる」と言われていて、紫式部が漢籍を読むことを侍女はとめたが、歌人の家風としては、特にそれを制することはしなかった。

紫式部が物語を書き出してから、女性としては珍しく時々批評的な文章を書いている。その文章には、かなり強靭な思考力が現れている。思考力は、漢籍などを読むことで磨かれたのである。
この磨かれた思考力は、結婚に踏みきることへの躊躇、人一倍人間の不幸を考えることなどにも作用し、素直でない性格を形成した。。ということにもなる。

■やりきれない越前生活
996年、紫式部24歳のとき、越前守になった父に伴い越前への旅をする。琵琶湖を船で行き、塩津に出て、北国街道の山を超え、敦賀のあたりでまた山を超え、越前平野の国府(福井県武生市)にたどりついた。
冬になると雪の深い越前の日々の生活は、紫式部には何の感銘も覚えなかった。
平安京の生活を捨てての地方生活は、何の期待もなかった。妻を伴っていなかった父の身辺の世話をするために地方へついてきたが、やりきれなくなった。紫式部は帰京した。

■不思議な晩婚
藤原宣孝との結婚は、越前から帰京して間もなくであった。998年、紫式部26歳になっていた。
当時の女性は14、5歳で結婚するのが通例であったので、非常に晩婚であるが、夫の宣孝も45歳だった。二人はこれが初婚ではなかったのかもしれない。

紫式部には二十歳前後の時期に、不幸な男性関係があった。なぜならこの人の日記、物語に現れている心理状態から、その心理状態に陥った何らかの経験があると考えてみると、「不幸な男性関係経験」が背後にあるとしか思えない。

■男性経験を歌で現している
家集の歌(個人または家の和歌)に、それにふれていると思われる贈答の歌がある。二十歳前後のことである

【方違え(かたちがえ)に渡りたる人の、
なまおぼおぼしきことありて、
帰りにけるつとめて、
朝顔の花をやるとて】

(方違えのためにやってきた人が
はっきりしない態度で
帰って行ったその朝早くに
私は朝顔の花を贈ろうと思って、、)


【おぼつかな、
それかあらぬか
明けぐれの、
そらおぼれする、
朝顔の花】

(はっきりしませんね
そうであったのか、なかったのか
まだ朝暗いうちに
ぼんやり咲いている
朝顔のような、今朝の顔は)

【返し、手を見わかぬにゃありけん】
(あの人からの返歌では、誰の筆跡か見分けがつかなかったという)

【いづれぞと、
色わくほどに
朝顔の、
あるかなきかに、
なるぞわびしき】

(あなたが誰の筆跡かと見分けているうちに、朝顔の花のように萎えてしまいそうになるのがわびしい)

「なまおぼおぼしきことありて」とは、判然としない状態を言う
これは、紫式部の男性経験である
方違えに来た男が、この人に熱い思いを打ち明け、さらにはもっと深入りした関係まで結んでしまった、、ということがあったけど、でも、、あの人の言葉とか、行動を思うと、本気なのか、ゆきずりの戯れなのか、、見定めかねる
と、読める

それにしては、男が返しの歌で、昨夜の今朝、朝顔を見ながら、誰からの歌かわからない。はて?と言っていることは、あまりなとぼけぶりである。男にとってはせいぜい、この人の気をひいてみる程度のやりとりがあったにすぎないのである。

この歌でわかるのは、紫式部は男性をかたくなに拒んで近づけようとしないほどの男嫌いではなかったということである