■月も入りぬ
帝「雲のうへも、なみだにくるる秋の月、いかですむらん、
浅茅生のやど」
思しめやりつつ、燈火をかかげ尽くして、起きおはします
右近の司の宿直奏(とのいまうし)の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし
人目を思して、夜の殿(おとの)に入らせたまひても
まどろませたまふことかたし
朝に起きさせたまふとても
明くるをしらで
と思し出づるにも
なほ、朝政(あさまつりごと)は怠らせたまひぬべかめり
ものなどもきこしめさず
朝がれひの気色ばかりふれさせたまひて、
大床子(だいしゃうじ)の御膳などは、いとはるかに思しめしたれば
陪膳にさぶらふかぎりは
心苦しき御気色を見たてまつり嘆く
すべて、近うさぶらふかぎりは
男女、いとわりなきわざかな、と
言ひあはせつつ嘆く
さるべき契りこそおはしましけめ
そこらの人のそしり、恨みをも憚らせたまはず
この御ことにふれたることをば
道理をも失はせたまひ
今はた、かく世の事をも
思ほし棄てたるやうになりゆくは
いとたいだいしきわざなりと
他の朝廷の例まで引き出で
ささめき嘆きけり
★雲のうへも→宮中、月の縁語
★すむらん→澄むと住むとをかける
★燈火かかげ尽くして→「孤燈火かかげ尽くして、未だ眠りをなさず」
長恨歌
★右近の司→宮中の夜勤は
亥の刻(午後九時)から左近の司
丑の刻(午前一時)から右近の司
が担当した
★宿直奏→夜勤担当者が姓名を名のる儀。それによって時刻を知る
★夜の御殿→天皇の寝室
★明くるもしらで→「玉すだれ、あくるも知らで、寝しものを、夢にも見じと、思ひかけきや」(伊勢集)
明くるは「玉すだれをあける」と「夜が明ける」をかける
長恨歌の屏風絵を伊勢が詠んだ
長恨歌「春宵は短きを苦しみ日高くして起く」「魂魄会いて来たりて、夢にだに入らず」による歌
★朝がれひ→朝がれひの間で食べる簡略な食事。朝とは限らない
★大床子→清涼殿で昼に食べる正式な食事
★陪膳→食事の給仕
★たいだいしき→もってのほかなこと
■月も沈んだ
帝「雲上とよぶこの宮中でさえ
涙に雲ってよく見えぬ秋の月
ましてあの荒れた宿では
どうして澄んで見えることがあろう、どんなに悲しみにくれながら
暮らしていることであろう」
と
浅茅生の宿をしきりに思いやっては
燈火をかき立て、油が尽きるまで
起きていらっしゃる
右近司の宿直する声が聞こえてくるから、もう午前1時になったのだろう。
人目をはばかり、寝床に入っても
まどろむことはできなかった
朝起きさせるとき、更衣が存命の頃も夜が明けるのを知らず眠っていたことを思い出すが、今もなお朝の政務は怠ってしまわれる
食事も召し上がらない
朝かれいには、ほんの形ばかり箸をつけるだけ、昼食はまったく縁遠いものと思われ、給仕方はみな、この痛ましい様子を見て嘆く
側近たちは男も女もみな
「本当に困ったこと」と言い合い嘆く
こうなるべき前世からの約束事はあったのであろうが、おおくの人からの非難や恨みをもかまわず、更衣の事となると、道理を失っていたが、更衣が亡くなられた今も、世のことを棄てた有様になっていくのはまったく、もってのほかな事だと、唐の楊貴妃の例まで引き合いに出して、ひそひそと囁き嘆いた