源氏の君は、上の常に召しまつはせば、心やすく里住みもえしたまはず
心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、たぐひなしと思ひきこえて
さやうならむ人をこそ見め
似る人なくもおはしけるかな
大殿の君、いとおかしげに
かしづかれたる人とは見ゆれど
心にもつかずおぼえたまひて
幼きほどの心ひとつにかかりて
いと苦しきまでぞおはしける
大人になりたまひて後は
ありしやうに、御簾の内にも入れたまはず
御遊びのおりおり、琴笛の音に聞こえ通ひ
ほのかなる御声を慰めにて
内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ
五六日さぶらひたまひて
大殿に二三日など
絶え絶えにまかでたまへど
ただ今は、幼き御ほどに
罪なく思しなして
いとなみかしづききこえたまふ
御方々の人々、世の中におしなべたらぬを、選りととのへすぐりて
さぶらはせたまふ
御心につくべき御遊びをし
おほなおほな思しいたつく
内裏には、もとの淑景舎(しげいさ)を御曹司(みざうし)にて、
母御息所の御方の人々、
まかで散らずさぶらはせたまふ
里の殿は、修理職(すりしき)、内匠寮(たくみづかさ)に宣旨下りて
二なう改め造らせたまふ
もとの木立、山のたたずまひ
おもしろき所なりけるを
池の心広くしなして
めでたく造りののしる
かかる所に、思ふやうならむ人を
据えて住まばやとのみ
嘆かしう思しわたる
光る君といふ名は、高麗人のめできこえて、つけたてまつりけるとぞ
言ひ伝へたるとなむ
★里住み
光源氏の私邸で左大臣邸
★さやうならむ人をこそ見め
藤壺のような美しい人がいるならば、そういう人を妻として会いたいものだ
★大殿の君
葵の上
★心にもつかず
気にもいらず
★ありしやうに
そのように
★琴笛の音(ね)に聞こえ通ひ
藤壺の弾く琴の音に、源氏が笛を吹き合わせて、お聞かせする
それによって源氏の心中が、藤壺に通うのである
「通ひ」で藤壺の心も動いていると認めてもよいだろう
★おほなおほな
大人げないほどに
人目もはばからず
★もとの淑景舎(しげいさ)
かつて母が局としていた桐壺
★御曹司(みざうし)
女官や役人の休息のための個人室
★まかで散らずさぶらはせたまふ
源氏の母・桐壺更衣付きの女房たちが、宮仕えを辞めて散り散りになろうとしたのを引き留どめ、そのまま源氏に仕えるようにさせたのである
★里の殿
桐壺更衣の里
後に二条院と呼ばれる
★修理職(すりしき)
宮中の修理造園担当
★内匠寮(たくみづかさ)
宮中の工匠や装飾など担当
★池の心広くしなして
池の中心を広くして=池の面積を広くした
★思ふやうならむ人を据えて
理想通りであるような人を、妻として住まわせて
藤壺を指しているが、藤壺をではなく、藤壺のような人がいるならば、その人を、妻としてここに住ませて
★高麗人(こまうど)
高麗の相を見る人
■源氏の君は、帝がいつもお召しになり、側から離さないので、気楽に里住みなさることもできない
その源氏の君の本心は、、
「ただ藤壺を、この世に類いなき人と思いつづけていた、そのような方こそ妻にしたい、、似た人もいないほど優れていらっしゃる方よ
左大臣の姫君は、大切に育てられた、いかにも美しげな人に見えるけれど、どうも気に入らない」
源氏の君は幼心一途に藤壺を思いつめて、本当に苦しみ悩んでいらっしゃったのである
元服してから後は、帝も今までのように御簾の内に入れてはくれない
管弦の催しのある折々には、藤壺の琴に、源氏は笛を合わせて聞かせては心を通わせ、かすかに聞こえる声を慰めとして、宮中の生活ばかりを好ましく思っていた
5、6日宮中に勤め、左大臣家には2、3日と、途切れ途切れに妻のいる左大臣家に帰宅するけれど、今は幼い年頃だから、とがめることもないと左大臣は解釈して、手を尽くして丁重にお世話しておられる。源氏の君と、姫君にそれぞれ仕える女房たちは、並々ならない人々を選んで仕えさせる。源氏の君が気に入るような催しをして、人目もはばからず熱心すぎるほどにいたわっておられた
宮中では、もと源氏の君の母の住まいだった淑景舎を、女房たちの休息のための部屋とし、母に仕えていた女房たちが散り散りにならないように、引き続いて源氏の君に仕えるようにせた
源氏の君の母の里の邸は、修理職や内匠寮に宣旨が下って、またとないくらいすばらしい改造をさせた
以前からの立木や築山の配置などが風情であったのを、池を広々と広げて、職人たちは大騒ぎしながらも、立派に造園した
源氏の君は、「こういう所に、理想通りの人を迎えて、一緒に暮らしたい」とばかり思いつづけて、嘆いていらっしゃった
光る君という名は、高麗人がおほめして、お付けしたとの言い伝えである、とのことである