〈式部丞〉
さて、いと久しくまからざりしに
ものの便りに立ち寄りてはべれば
常のうちとけいたる方にははべらで
心やましき物越しにてなん会ひてはべる。
ふすぶるにやと、おこがましくも
またよきふしなりとも思ひたまふるに、
このさかし人、はた、かるがるしきもの怨じすべきにもあらず
世の道理を思ひ取りて、恨みざりけり。
声もはやりかにて言ふやう
「月ごろ風病重きにたへかねて
極熱の草薬を服して、いと臭きによりなん、え対面はらぬ。
目のあたりならずとも、さるべからん雑事らはうけたまはらむ」
と、いとあはれに、むべむべしく言ひはべり。
答(いら)へに何とかは。
ただ「うけたまはりぬ」とて、
立ち出ではべるに、さいざうしくやおぼえけん「この香失せなん時に立ち寄りたまへ」と高やかに言ふを、聞きすぐさむもいとほし、
しばし休らふべきにはたはべらねば
げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるも、すべなくて、逃げ目を使ひて、
式部丞
「【ささがにの、ふるまひしるき、夕暮れに、ひるますぐせと、言ふがあやなさ】
いかなることつけぞや」
と、言ひもはてず、走り出ではべりぬるに、追ひて
女【あふことの、夜をし隔てぬ、仲ならば、ひるまも何か、まばゆからまし】
さすがに口とくなどははべりき
と、しづしづと申せば、君達、あさましと思ひて、「そらごと」とて笑ひたまふ。
「いづこのさる女かあるべき。
おいらかに鬼とこそ向ひいたらめ。むくつけきこと」
と、つまはじきをして、言はむ方なしと、式部をあはめ憎みて
「すこしよろしからむことを申せ」
と、責めたまへど、
式部丞
「これよりめづらしき事はさぶらひなんや」とて、おり
★ふすぶる
くすぶる
↓
すねる、焼きもちをやく
★よきふしなり
(縁を切るのに)よい機会だ
★風病
風邪
半身不随の神経症説もある
★極熱の草薬
にんにく
★いとあはれに
感心する(嫉妬せず病中でも用事を伺うという女を)
★高やかに
(さすがに男が恋しいので)男の背後から大声で呼びかける
★逃げ目
逃げ出す時の目つき
申し訳なさそうに、額を伏せて、額越しに横目で、相手の顔を窺う
★ささがにの、ふるまひしるき、夕暮れに、ひるますぐせと、言ふがあやなさ
↓
わが背子が、来べき宵なり、ささがにの、蜘蛛のふるまひ、かねてしるしも(古今より)
↓
「ささがに」はその形が蜘蛛に似て、蜘蛛の枕詞となり、蜘蛛の意味にも用いる
↓
蜘蛛が糸をはると、親しい人が尋ねてくるという俗信があった
★いかなることづけ
口実
女が会わない口実に、ニンニクを持ち出したのを言う
★まばゆからまし
まぶしい+恥ずかしい
★さすがに口とくなどはべりき
歌はうまくないが、賢い女だけあって
■〈式部丞〉
さて、女の家には、すっかり御無沙汰しましたが、何かのついでに立ち寄ってみたところ、ふだんのくつろぐ部屋に女はおらず、私は女と暖簾を隔てて会ったのです。
焼きもちでも焼いているのかバカバカしい思い、また縁を切るのにもよい機会だと思いましたが、
この賢い女は、軽々しい焼きもちなど焼くはずもなく、世の男女の仲の道理もよく承知していて、そのような恨みごとなど言いませんでした。
女が声もせかせかと言うには
「この数ヶ月、風病が重いのに耐えかねて、極熱の草薬を服用し、ひどく臭いので会えません。
顔は見ずとも、しかるべき用事は承ります」
と、感心なことを論理的に言うのです。
これに私は何と答えましょう。
私は、ただ「はい、わかりました」
と言って立ち上がって部屋を出ようとしますと、女は私の対応に物足りなく思ったのか、「この臭いがなくなったら、またお立ち寄りください」と背後で声高に言います。それをそのまま聞き捨てるのは気の毒なものの、しばらく休んでいくわけにもいかず、それに草薬(ニンニク)の臭いがはでに鼻をつくのもやりきれず、逃げる目で
「【ささがにの、ふるまひしるき、夕暮に、ひるますぐせと
言ふがあやなさ】
いかなることつけぞや」
↓
「【ササガニに似た蜘蛛が糸を張って、親しい私が来る前兆のある夕暮れに、ニンニクの臭いが消えるまで待てというのは筋が通りません】
会わない口実にニンニクを持ち出したんだろ」
と、言い終わらずに逃げ出したところ、女は後を追って
【あふことの、夜をし隔てぬ仲ならば、ひるまも何か、まばゆからまし】
↓
「夜毎会っている仲でしたら、昼間だって、どうして恥ずかしいことがありましょう。ニンニクの臭いがする時だって、恥ずかしがりはしないでしょう!👹」
と、さすがに賢い女、即座に返しの歌を詠みました。
、、
と、式部丞は話し終わると、君達はあきれて
「作り事だ」
「どこにそんな女がいるものか。おとなしく鬼とでも向かいあっている方がましだ。気味の悪い話だ」
などと式部丞をつまはじきにしたり、たしなめたり、憎らしがったりし「少しはましなことを申し上げろ」と責めたが、式部丞は
「これ以上に珍しいことがございましょうか」とすわっている