■1793年10月15日
判決
マリーアントワネット死刑
処刑は明日、革命広場にて
マリーアントワネットは、長い苦しみが終わろうとしているその夜、義妹に最後の手紙を力強くしたためる
「愛する義妹よ、、私は今、判決を受けたところです。しかし屈辱的な死刑(死刑は犯罪者のみ屈辱的)の判決ではなくて、あなたの兄に会いにいけるのです。私の気持ちは平静です。子どもたちを置いていくことだけが心残りでなりません。そしてすべてを犠牲にして私のそばにとどまってくれたあなたを、私は何という境遇に置き去りにしていくことなのでしょう、、、
これをもって、みなさまに永遠にお別れいたします。さようなら、やさしい義妹よ、この手紙がどうかあなたに届きますように」
あぁ神よ、さようなら、さようなら
■1793年10月16日
「まだ私には残された仕事がある
それは、、ただ立派に死ぬこと
見るがいい、マリーアントワネットの死に方を
この首が落ち血がしたたろうとも、私は永遠に眼を見開き、フランスの行く末を見つめるだろう、、
しっかり見るがいい!
これがフランス王妃の死に方です
そして、、
フェルゼン、最後のその瞬間まで、のめり込むように私はあなたを愛します」
1793年10月16日
午後零時15分
処刑
■1794年までに革命広場のギロチンは、ロベスピエールらを含む2600人の血を吸った
後にフランスは英雄ナポレオン・ボナルドの出現を待つことになる
■フェルゼンは祖国スウェーデンへ帰り、生涯妻をめとらずアントワネットの面影だけを追って生きつづける。やがて愛するアントワネットを奪いとった民衆を憎悪するあまり冷たい権力者となった
1810年6月20日フェルゼンを憎むスウェーデンの民衆の手によって彼は虐殺された
運命は死をもって愛しあう2人をあの世で結びつけた、、のであろうか、、?
1755年9月4日
スウェーデンにフェルゼンが
1755年11月2日
オーストリアにマリーアントワネットが
生まれる
FIN