2022年ももうじき終わります。
改めて、本年のお礼を申し上げます。
今年も「組合」の大切さ、ありがたさを実感した、そんな一年間になりました。
今年は、正直に言うと、前半は、自分自身の異動の問題からでした。
結果的に、「残留」ということで、「9年目」を迎えることになりました。
「9年目」を迎えて、職場では、全くもって「古株」になった私自身が、職場をはじめ「教育そのもの」について革新的な行動をとっていることについて、これこそ、まさに「組合」の存在なくして語ることができないと思います。
そんな私でしたが、職場をはじめとして、教育全体に対してこだわったこととして、「特に若い人たちが考える新しいアイデアや取り組みに対して、『そんなことは見たことも、聞いたこともない』という攻撃は絶対にしない。」(例外もありますが)
「50代になって、職場でも9年目を迎えたことから、文科省や地教委、管理職とその予備軍とは、違った視点から、自分の考えを出していく。」
以上の2点を心掛けました。
前者は、やはり「今、教育そのものが変わる大きなチャンス」と考え、「コロナ禍後の元への揺り戻し」に対する闘いです。
そして、後者は、私自身、管理職を目指すわけでもなく、長年同じ場所に勤めている身として、何か若い人々に何か残すことができたら、という考えからです。
もちろん、こういう行動ができるのは「組合」の後ろ盾があればこそなのですが、ある知人に言われた「出世して、自分のしたいことを我慢する人生を送るのか、それとも、出世せずに、自分がしたいことをする人生を送るのか、『出世』というものは、そういうものなのではないか?」(主旨)というのが、大きかったと思います。
(もちろん、「出世」についての考えは様々で、私の考えが絶対ではないのは当然です。しかし、今現在、私自身の「出世」に対する考えは、先ほどの知人の言葉が、一番しっくりきます。)
一方で、年の途中から、「学校は『優等生のお利口さん』を作る工場じゃない。」と、自分の中で、やっと言語化することができたのかなと思いました。
※「優等生のお利口さん」→少し長いけど、私の言葉でいうのなら、「『学校』において日本政府、文科省、地教委、管理職とその予備軍の考える規格に見合った『学力』を有する『優等生』で、かつ、その日本政府、文科省、地教委、管理職とその予備軍の価値観に対して、疑問を持たない『お利口さん』。」という人々。
あくまでも、私(小川)の造語。
そう、思えるようになったのは、前年度、本校のPTAの広報内で、教職員へのインタビューの中で、「教職を目指した理由は?」の設問に対して、ほぼ全ての職員が「学校で、先生に褒めてもらえたから。」(主旨)と、答えていたことに、驚いたのです。
ちなみに、私自身は「おぼえていない。」(主旨)と回答し、そのまま載りました。
(本当は、私にも、きちんと理由があるのですが、ここでは伏せておきます。)
そのあたりから、全ての場面ではないにせよ、同僚の職場での言動について、多くのことが「そうか、彼らは『優等生のお利口さん』を目指していて、目の前の子ども達に対しても、『優等生のお利口さん』になってほしいと思っているんだな。」と、解釈できるようになりました。
まだまだ、これからも職場が変わろうが、変わるまいが、「優等生のお利口さん」(という価値観)との闘いは続きそうです。
「同一校7年目」を超えたので、毎年が1年勝負となり、4月以降、どうなるかはわかりません。
(ところで、「同一校7年」とか「同一市町村10年」という「しばり」の根拠について聞いたら、県教委も、北総教育事務所も「わからない。」とのことでした。)
ともかく、心身とも、本年も事故やケガ、病気をせずに年を越すことができそうです。
月並みな表現ですが、そういう生活を送ることができるのも、「組合のおかげ」と考えています。
整いませんが、2022年のお礼のあいさつに代えさせていただきます。
-K.O-