ゴールデンウイークに高知市に行ってきました。
JRで瀬戸大橋を渡ります。思ったよりあっけなく、あっという間に通り過ぎました。海を越えるとういうよりもいくつも橋を渡ったという感じ。
大歩危周辺、さすが、谷の切れ込み方が鋭い。
高知市に着きました。街中にお遍路さんのための道標があります。
桂浜 きれいな砂浜ですが、波が荒く遊泳はできません。波打ち際に近付くと警告の放送があります。
桂浜周辺は常緑樹林。下の方はツワブキやシダ、低木層にはトベラなどがあり、高木層に途切れなく続く。公園化されていますから、道路にはみ出した枝などは切ると思いますが、久々にきれいな林縁を見ました。
龍馬像 行ったのが午後だったので後光が射しています。
夕食に出たチャンバラガイ。商店街でも売っていました。
これがチャンバラガイの刀らしき部分。
同じくのれそれ。アナゴの稚魚です。
牧野植物園はぜひ行きたいと思っていたところですが、まず、ガーデンとして見ごたえがありました。この雑木林はエントランス部分で、高知の植物を野外展示しています。小さな立札が植物の説明板ですが、これがなければ普通の雑木林にしか見えません。近くに渓流もありましたが、山の上なので、たぶん人工の渓流と思います。
次に建物が見ごたえがありました。木をふんだんに使ったUFOのような牧野富太郎記念館本館。まんなかは中庭になっていてタイワンマダケが育っています。ここにはショップとカフェなどがあります。もうひとつある牧野富太郎記念館展示館には牧野富太郎氏の生涯についての展示があり、牧野氏を知らない人にとっても明治の知識人の一典型として興味深いのではないかと思います。
園内の展示が系統的に植栽されているかどうかは詳しく見なかったのでわかりませんが、面白い植物が多数見られます。これはムサシアブミ。ユキモチソウなどの仲間ですが、巨大です。となりにユキモチソウもあります。
びっくりしたのは、ケシを植えてあることです。もちろん研究用で厳重に囲われています。また、四国厚生支局の許可証もありました。
その近くに展望台があり、左方向の山にけっこう大きなサギコロニーが観察できます。
説明板には6種のサギが紹介されていますが、ざっとみたところ、アオサギが一番多かったです。
高知市の山はシイノキが多く、花盛りで山がまっしろに見えました。
中国産のトビカズラという植物の花です。果実表面にはとげがあり、ささると痛いそうです。中国の観光客がさかんに写真を撮っていましたが、母国では見たことあるんでしょうか?
ナンジャヤモンジャも花盛り。
大阪にも牧野氏の名前をつけた植物がいくつかありますが、これはそのひとつスイタクワイ。こうして水盤に植えるとなかなかきれいです。牧野植物園は温室の横に南門がありますが、南門から入り、正門に向かうほうがよさそうに思えました。もっとも正門と南門はそれほど離れていないですが。
高知市は喫茶店文化が盛んということで、ホテルの近くでモーニングを食べました。これは「高知のモーニングパート2」というメニュー。パート1はありませんでしたので、リニューアルされたのでしょう。ただ、朝の開店時間は全国チェーンの店の一部をのぞき、早くて8時からでした。
高知といえば坂本龍馬。これは龍馬生誕の地。
龍馬の生まれたまち記念館。郷士と町人が一緒に住むまちだったようです。
龍馬の生まれたまち記念館から南にすぐのところが鏡川。住民たちが鏡川沿いを工事して街を作ったそうですが、そうしてできた屋敷を築屋敷と呼んだそうで、龍馬の通った日根野道場もこのあたりにあったそうです。
高知城は苔むした石垣に魅力がありました。
しかし、このぼんぼりはいただけない。
高知城の展示にあった、クジラ解体のようす。これってマグロやカツオの解体みたいですが、本当にここまで切っていたのでしょうか?
城下町の名残を探して歩きました。高知は歴史資源がいっぱいあるところで、町の片すみにも歴史の逸話が隠れています。しかし、体系的に紹介するものがほしいなと思いました。高知城の前で高知城博物館というのが建設中で2017年に開館するそうですから、それができれば歴史散策はしやすくなるんではないでしょうか。
これは山之内家の下屋敷の長屋門です。敷地内はホテルに変わり、この部分しか残っていません。ただ、この建物の用途はよくわかっていないとのことです。
これは城の北側にある大川筋武家屋敷資料館。この屋敷には保存運動があったそうですが、改築などが行われていたため保存の価値は小さいと判断されていたそうです。ところが、いまやこの屋敷と上の長屋門ぐらいしか見ることができません。
大町桂月氏も高知の生まれ。大町桂月氏は今日日本の景勝地のリストアップをしたような人で、有名観光地には必ずこの人の足跡があります。
寺田寅彦氏も高知の生まれ。彼が4歳から19歳まで過ごした家が復元されています。はなれの書斎はもとのもので、少し位置をずらしています。ただ、ここにはあまり資料類はなく、そうしたものは城内の高知文学館にあるそうです。庭にはカシワやイチョウが見られ、これらは寺田寅彦氏の随筆に出てくるようです。
春の新舞子海岸に行ってきました。
新舞子海岸は姫路市の南西部にある海岸で潮干狩りで有名です。特にマテ貝で有名です。
ダイシャクシギらしき鳥が干潟を歩き回っていました。
アオサギとダイサギは荒波に負けず餌を探します。
沖合には家島群島。これは男鹿島。土石採取で有名で、アメリカ西部のような景色です。
茶屋のおじさんが貝堀りをする前でダイサギが何やら探す。
マテ貝か?マテ貝って前に海が開けた干潟にいるように思います。
昼食に貝ごはん定食をいただきました。ごはんとうどんはアサリが入っています。まんなかのたこわさおいしかったです。
浜を離れて山陽電車網干駅へ歩きます。家島群島のみならず内陸部にも土取り跡が見られます。
山陽網干駅までの道の目印はお寺と橋。村と村を結ぶ道沿いには必ずお寺や神社があります。そしてかつては渡し船があったところに橋が架けられ、繁華な街へとつながってゆく。途中には思いがけない発見もあります。
篠井乃水という湧水がありました。播磨十水のひとつということで、定められたのはかなり昔の話のようです。
このすぐそばに富島川がありますので、このあたりは昔は河道で今は伏流水になっているのかもしれません。
あとで姫路城を訪ねましたが、播磨十水はそこにもありました。
小さな建物の中に水が湧いていました。岩から水が滴っています。
富島川の橋。橋を渡ったところの森は富嶋神社です。この川の河口右側にさきほどの新舞子海岸があります。富島川は今はつながっていませんが、もとは揖保川の一部だったのではないかと思います。
街中をお寺を目標に通り抜け、次に越すのは元川。元川の上流は揖保川につながっていますが、もともとはこちらが本川だったのかも。この河口にも潮干狩りができる場所があるようです。
最後に越したのは揖保川。
そして揖保川を渡ったところは旧丸亀藩の飛び地。網干陣屋跡です。
陣屋の建物ではありませんが、立派な建物も残ります。これは姫路市の景観重要建築物第一号。
新舞子海岸から山陽網干駅までは揖保川の三角州の旅でした。
山陽網干駅からは山陽姫路駅に出ました。この駅は姫路城の惣構え跡との話です。
姫路城です。この3月27日に修復工事が終わりグランドオープンしました。
しかし、お目当ては映画特に「007は二度死ぬ」のロケ地探し。
この石段は天守閣に登る道ですが、007ではタイガー田中がボンドに潜入のため日本人妻を娶ることを提案する場面ででてきました。黒沢明の影武者では兵士が武田信玄を狙撃する場面がここだったと思います。
天守閣からの眺め、下に3段の広場がありますが、一番手前は007でタイガー田中の忍者学校で空手の訓練をするシーンをやってた場所。一段とんで一番下の広場はボンドがヘリコプターで降りるシーンで出てきました。
この小さな広場は、居合の達人が演武を見せた場所。現在は入ることができません。扉にたまたま空いていた穴から見た景色です。
そして、この場所は有名な手裏剣の訓練のシーンで出た場所。備前門と「り」の門の間です。
城を降りてからは千姫の小径を歩きました。人が来ても逃げないアオサギがいました。
千姫の小径は左の船場川と右の堀の間の道です。
姫路市は爆撃を受けたり、播州経済の中心として発展するなど、昔の町並みはあまり残っていないようですが、まったくないわけではありません。船場川周辺では古い建物が見られました。外国人が泊まっているゲストハウスもありました。また、ここではないですが、上級者向けの街歩きコースとなっているところもあるようです。龍馬の訪れた記録も残る料理屋があるそうです。
姫路城の周辺をぶらぶらしてみました。これは中濠です。奥にはつたのからまる石垣もあります。観光客はあまりいないですが、古い感じがなかなか良かったです。
先日行った御室仁和寺ですが、もちろんそのときは有名な御室の桜はまだ咲いてなかったのですが、一度みたいなと思っていたら、4月12日で「散り初め」とか。明日からは雨だし、急がねばと思い、夕方ですが、行ってきました。
もちろん混んでいましたが、堪能しました。
境内はほかにもいろいろな花が見られます。ピンクの花はコバノミツバツツジ。
背後の山でも満開です。
残念ながら、反対側の双ヶ岡にはコバノミツバツツジは見当たりませんでした。
夕方行ったわけですが、珍しい光景も見ることができました。お寺さんが閉門作業するところです。
ふち歩きの道すがら、観光になってしまう社寺の拝観はなるべくしないつもりでしたが、清凉寺、仁和寺、上賀茂神社などやはり見ておくべきものも少なからずありました。その中でスルーしたまま気になっていたのが金閣寺でした。
金閣寺の背景の山が道からはよく見えないので、はたしてどのような山なのか気になっていました。そこで、行ってみました。
京福電鉄の北野天満宮駅で降りて、まずは北野天満宮に行きました。境内には御土居があります。ここは梅林になっているらしく、受付があります。有料のようです。
北野天満宮を北に出て、西へ向かいますと、紙屋川を渡ります。けっこう深い谷になっています。川の向かって右側が御土居の位置です。御土居には紙屋川に対する備えの意味もあるのかなと思っていましたが、必ずしもそうではないのかなと思い直しました。ブラタモリの時に言ってたみたいに「都市の外周をはっきりさせる」という意味もあるのでしょう。
さて、歩いて金閣寺まで着きました。コケがまだら模様になっています。これは意図したことなのか?張り替えでこうなってしまったのか?
さて、金閣寺の背景の山です。・・・・・舎利殿(金閣)に注目が集まるので、あまりみんな見てないだろうな・・という感じです。
こちらは西側。高い山は衣笠山でしょうか?広沢池の奥の山とはかなり感じが違います。一部常緑化しています。あまり見えないし、金閣が目立ちすぎてみんな見ていないだろうな・・って感じです。
せっかくなので、金閣の屋根の上にのっている鳳凰像を掲載します。
ところで、金閣の前の池に流れ込む水はどこから?一段高いところに小さな池があります。
その池にはさらに流れ込む水路があります。
水路の途中には水が湧いているところがあります。これは銀河泉。お茶の水にしたのでしょう。
もう一か所巌下水というのも。しかし、この湧水より上からも水が来ています。
そこにはやや大きめの池がありました。
池には水が流れ込んでしますが、これがどこから来ているかはわかりませんでした。もしや井戸?
反対側を見るとさきほどの衣笠山?が良く見えます。やや雑然とした感じの植生ですね。
さて、金閣寺探訪を終えて、金閣寺前から東へ向かう鞍馬口道を歩くことにしました。紙屋川を渡ると道は小さな谷を下る道になりました。この谷を作った川がどこから来たのかはわかりませんでした。
道中は下町的な街を抜ける道で、最近有名になった銭湯船岡温泉もあります。
船岡温泉と似た感じの建物ですが、こちらは飲食店のようです。ほかにもけっこうおもしろそうな店が点在していました。
堀川紫明の交差点からは比叡山も良く見えます。
交差点から右のやや細い道に入り、さらに進むと力餅食堂がありましたのでおはぎをいただきました。
今日の終点は地下鉄鞍馬口駅にしました。
前に嵐山~広沢池まで歩いた時に、嵐山から清凉寺にかけて山から離れたところを歩いていたので、今回は補足的に嵐山の山を歩いてみることにしました。
渡月橋を渡り、対岸の岩田山方向を見ると、山肌になにやら横線が多数。山腹崩壊をくいとめるための工事が施されているようです。
嵐山周辺の地図。何回も地図の上をなぞったため、傷んでいます。
思いがけず近くにイソシギがいました。
嵐山の山といえば小倉山ですが、とりあえずその手前の嵐山公園亀山地区に行きました。アセビが満開です。
嵐山公園の一番奥からは保津川が見えます。有名な旅館も見えています。
右側の山へ向かうことにしましたが、あとで考えるとこれが小倉山だったんですね。
嵐山公園が終わったあたりは、木が伐採されて明るくなっていました。ナラ枯れ対策でしょうか?
キタテハでしょうか。
ビロードツリアブもいました。春先にだけ現れるかわいい昆虫です。
途中はナラ枯れがひどい状態です。これはナラ枯れ対策に加えてシカのツノこすり対策もしています。
小倉山の山頂らしきところにつきました。するとどうしたことでしょう。今まで山道だったのに、ずいぶん立派な道が来ています。
そしてフェンスが張り巡らされた一画があります、中はアカマツ林です。
アカマツ林の再生をめざしているようです。下の写真はフェンスが途切れているところです。右側のフェンス外と比べると密生の度合いが違います。
しかし、舗装路は実に歩きにくい。
やがて、嵐山のドライブウエイに出ました。ウオーキングルートはまっすぐ前の雑木林の中に入り、保津川の落合まで行けるようですが、足元が登山用でなかったのでここで戻りました。
途中で見た見事なウラジロ群落。
途中京都市街を見下ろす素晴らしい展望台がありました。
さきほど、嵐山公園を抜けたところにあった伐採地ですが、ここもシカ対策と松林の育成が行われています。どうやら尾根筋でこうした景観修復が次々おこなわれているみたいです。
そこからも嵯峨野景色が眺められました。
小倉山は古生層でできているということですが、この岩は古生層のものでしょうか?
この波板の向こうは有名な庭園ですが、裏側を通る人間までおもてなししてくれないみたいです。
天竜寺境内でもアカマツ林再生の工事が行われています。
保津峡の舟運を開いたことで有名な角倉了以さんの銅像。
しかし、保津峡の開発に関わったのは角倉了以さんだけではないようです。道昌というお坊さんは保津川の井関を修復したり、舟運にもかかわったそうですもちろん、角倉さんよりもはるか昔の人です。
嵐山公園の案内図。
保津川のセグロセキレイ。
渡月橋から見た嵐山公園亀山地区(下の平たい丘陵)と小倉山。
桜開花もまもなくでした。