今回は、阪急嵐山~嵯峨野広沢池までです。
本来は、これを1回目に紹介すべきだったんですが、事情により今回になりました。
これが歩いた地図のアバウトマップです。
まずは、阪急嵐山駅から桂川に出ます。
桂川に出たあたりは、木津の泉大橋まで続く自転車道のスタート地点です。この日も数人のサイクリストが準備していました。泉大橋のあたりの木津川は昆虫調査で何度も行ったところなんですが、ここから45キロ先というのは結構遠いなあという感じです。
この日(3月8日)はずいぶん水が濁っていました。
渡月橋を渡るとラッキーなことに上空をチョウゲンボウが舞います。尾羽のベルトまで見えました。
渡月橋から上は保津川といい、さらに亀岡市に入ると大堰川(大井川)というそうですが、大きな堰があったのでしょうか?今も渡月橋のすぐ上には大きな堰があります。発電設備もあります。
向かいの山(岩田山など)が良く見えます。全山雑木林が目立ちますね。
渡月橋を渡り、そのまま北へまっすぐ歩きます。観光客が多いですが、JRの踏切を越えるとまばら。閉めた喫茶店などがあります。途中で見た民家。昔は壁にたてかけた床を倒してお店を開いていたんでしょうか。
清凉寺が見えてきました。
山門をくぐり、西を見ると山が見えます。このあたりは常緑化が進んでいるようです。
清凉寺境内には葉の付いた枝やら植物材料がたくさん。松明行事など火を使う行事があるのかな。これも里山の利用のひとつといえましょうか。
境内にはきれいに手入れされたマツが。
近づくと・・・松枯れ対策してますね。しかも有名な製薬会社がかかわっている。
清凉寺の境内を東に出て、さらに北に向かいます。山すそまで出ました。京都の周縁部、山のふもとには必ず新旧とりまぜてお寺や神社があります。平地と山地、あるいは里と山という境界はなにか宗教的な雰囲気を醸すものがあるのかもしれません。
ここで東に向きを変えます。途中で見える山林の姿。
さらに進んで大覚寺に出ました。大沢池は庭園としてよく手入れされて景色も美しいですが、鳥も多かった。
池の中の島にカワウやカモが上がっています。池の中ではオオバンが活躍。ハスが多いためでしょうか。
チュウダイサギ(?)が池の岸辺の中でなにやら餌を探っていました。少し前に来たときはあまり鳥を見ませんでしたが、春が近いのでしょうか。
ところで大覚寺の一画には名古曽滝跡という和歌に詠まれた有名な滝の跡があります。もっとも詠まれた時点ですでに枯れていたという歌があるくらいですから、水が落ちていたのはかなり古い話です。自然の滝が枯れるなんておかしいと思って見に行ったら、自然の滝ではないことを知りました。だいぶ前の話です。次の写真が名古曽滝です。石組のところから水が流れています。
もうすこしバックして全体を見るとこんな感じです。背後の家が見えます。自然の滝のように山から水が落ちている感じではないですね。
じゃ、そもそも名古曽滝はどこから水が来ていたんだということで、前からその背後を見たいと思っていました。・・で行ってみました。こんな感じです。左側の木が生い茂っているところが大沢池のある敷地ですぐそばに名古曽滝があります。右側は一段高くなり、その間を水路が流れています。この水路は名古曽滝にむかってまっすぐ来ているのではなく、直角の方向を向いています。おそらく、名古曽滝のあたりに堰があって、そこでせき止められた水が名古曽滝へと流れているんではないでしょうか?そこまでは行けませんでしたが、そんなふうに想像しました。
この付近は北側の山からの水路が縦横に走っています。つまり、名古曽滝は嵯峨野の水路網を利用して作られた人工の滝ということです。それが庭園が廃れたためか。水路網に変更があったためか。名古曽滝への配水が行われなくなって枯れたということだと思います。そうすると上の写真の水路も1000年以上の歴史がある水路なんでしょうね。
大覚寺から東側は広い農耕地です。このあたりはシカ被害が多いためか。農地周辺は厳重に防鹿柵が巡らされています。
途中の水路にはシジミの殻が。
このあたりの道は千代の古道と呼ばれています。
田んぼに木の枝や収穫済の菜っ葉の切れ端が置いてあります。これから田んぼにすきこむのでしょうか。これも里山的な風景といえそうです。
道はやがて広沢池の前にでました。広沢池の南岸から眺める風景は嵯峨野らしいたおやかな山の姿です。まんなかの山で緑色しているのは上のほうは松ですが、下の方は常緑樹です。それが違和感なくつながっています。松枯れのあと白い枯れ幹を見せる松もありません。かなり念入りに手入れしてあるように思われます。この広沢池ももとは嵯峨野の水路網の一端を担う池です。
このあと宇多野を経由して仁和寺まで歩くつもりでしたが、時間がなく、広沢池の東にある山越バス停からバスに乗って仁和寺まで出ました。この間には宇多野ユースホステルがあったりするんですが、ほとんど街中で見るものはあまりありません。仁和寺からは京福電鉄に乗りました。
京都ふち歩き3回目。
今回は前回の終点上賀茂神社を出発し、東へと向かい京福電鉄の宝ヶ池駅までを歩きます。
上賀茂神社までは、京阪出町柳駅からバスで向かいましたが、上賀茂神社の背景を遠望したいと思い、鴨川のひとつ下流にある上賀茂橋で降りて川沿いに歩きました。そうすると、幸運なことに御土居を発見。この御土居はまさしく鴨川に備えたもので、現在の堤防と平行に作られています。北端で西に曲がっています。ここから北は洛外ということですね。
御土居の北端の横が上賀茂神社にわたる御薗橋。ここから鴨川の上流を眺めると、落差工の上の段は砂州が左右に分かれていますが、その上の段はまんなか、さらにその上は左右と交互になっています。
御薗橋からは上賀茂神社の背後の山が見えます。実はこれを上賀茂神社の神体山と思っていましたが、間違っていたことに気付きました。
これは境内にある立砂(砂できずいた山)の説明ですが、上賀茂神社の神籬(ひもろぎ、神体山のこと)は、ここから北北西2kmにある神山であると説明されています。
立砂のすぐ近くにある手水舎の水は、この神山のくぐり水と説明されています。くぐり水とは湧水ということでしょうか。
では、神山はみえるのでしょうか?鳥居前の案内図の左上に神山の姿が描かれています。
大きくするとこんな感じですが、鳥居越しには木が茂っており見えませんでした。
しかし、駐車場に入る道からは見えました。
拡大してみましょう。
このような説明板も立っています。
前回、柊野堰堤に向かう途中で鴨川の東側に山が見えました。この写真ですが、ここに写っている右側の山のようです。
さて、上賀茂神社の境内には美しい小川が流れています。前回ふれましたが、この川の水のかなりの部分は鴨川から来ています。
そこで見たキセキレイ。谷川の景色のようです。
小川の一部は曲水の宴を行う庭園につながっています。
庭園には大きなスダジイがありました。
小川のつづきは社家の町つまり神主さんがすんでいる町へとつながっています。このあたりは掘割といったほうが良いでしょうか。
この写真の右側に邸内に水を取り入れる口が見えます。
社家の街を流れた小川は藤木社の前で大きく曲がり、南へと流れていきます。
この場所で北の街の中へと進みました。角にある井関家も社家の家ということです。
このあたりを歩いていると、警官が数人あわただしく駆けつけました。なにごとかと思うとどうやらサルが出たようです。
さらに道を曲がって進むと大田神社に出ました。大田神社には有名なカキツバタ群落があります。この神社の前には北大路魯山人の生家跡という石碑が建っていました。
大田神社は賀茂地域で最も古い神社ということです。カキツバタ群落は京都が湖水であった時代の名残でかつてはここも湿地だったとか。思うに中世以後の土木工事で大規模な水利網ができる以前はこうした湿地や湧水が重要な水源であって、そうした重要な場所が聖地として祀られたのではないでしょうか?・・と想像です。
大田神社から東に進むとしゃれたイタリアンの店がある地域をぬけて深泥池(みぞろがいけ)に出ました。ここは有名な天然記念物でミツガシワやカキツバタなどの希少な動植物が見られます。大田神社のカキツバタは現在では水が枯れることもあり、水の補給をしたり肥料をやったりしていると看板に書いてありましたが、この池のカキツバタは完全な野生でしょう。先日京都文化博物館で洛中洛外図を見ましたが、古い図では深泥池も描かれ、カモ猟などをしていたようです。
深泥池からさらに東に行くと宝ヶ池公園の運動施設に出ました。宝ヶ池公園はこの北側の山向こうもそうですが、ここはグランド専用の場所です。背後に五山送り火の「妙」の字の山があります。へんとつくりの間に谷間があります。
さらに進むと道路沿いに水路がありました。
水路は北東方向へ進みます。
住宅地の中でさらに大きな水路に合流しています。
そして高野川につながっていました。
この先は京福電鉄の宝ヶ池駅です。ここできょうは終わりにしました。
鴨川、高野川からの立派な水路にはさまれた大田神社から深泥池にかけての地域は、水路網が整備される以前は大田神社付近の湿地や深泥池からの水利を利用していた地域だったのではないか?それにより古くから人が暮らしてきた。古い社が残されているのはその証拠ではないかと想像しました。
また、上賀茂神社の神体山が神社から遠く離れていることも気になりました。神山は柊野の北端にあたります。もしかすると鴨川からの水利ができる以前は神山の湧水が柊野の水源だったのではないか?と想像しました。はたしてどうでしょうか?
(地図を間違えておりましたので、修正しました。3月9日)
前回に続いて京都ふち歩きの続きですが、簡単な地図で歩いたコースを紹介します。ほんとざくっとした地図ですので、曲がり角なんかはアバウトです。さて、今回は鷹ケ峰~鴨川が京都盆地に出る扇の要の位置にある柊野堰堤を経由して上賀茂神社までです。
さて、2月15日に現地に行ったのですが、この日はなんと京都マラソンの日。バスが混雑で動けないだろうということで、北大路から乗ったバスは千本北大路で降りて、あとはひたすら歩く。すると、途中ではじめにのる予定だったバスに追い抜かれました。なんのこっちゃ。奥の道路案内看板の左方向が鷹ヶ峰。左の建物は佛教大です。
鷹ヶ峰の目的地土天井町バス停には結局15分ぐらいで付きました。途中の家が道路に対して少し斜めに立っているのはなぜ?
有名な御土居につきました。次の写真が説明図ですが、戦乱で荒廃した京都の復興のために秀吉が作ったものだそうで、ここは東西方向の御土居です。もう少し先で南に向きを変えます。その先は紙屋川です。説明には鴨川の水害を避ける目的があったと説明されていますが、紙屋川に対する備えでもあったのではないかと思います。この写真の右手側(北側)は洛外ということになります。
鷹ヶ峰の街道を北へ進むとT字路にあたります。そこを左へ行くと光悦寺があります。光悦寺の土地は家康からもらったとのことで、このあたりは江戸時代になって開けた場所ということでしょうか。
光悦寺の庭園は多数の茶室と本阿弥一族のお墓があります。庭園といっても茶室の間の通路の植込みを見て歩く感じです。なお、茶室は入れません。ただ、西の端からは鷹ヶ峰三山と京都市街が望めます。これがこの庭園の一番の見どころでしょう。この写真の左の山が鷹ヶ峰、右の途中まで見えている山が鷲ヶ峰とのことです。次の写真に山名の説明があります。あいにくこの日は雨がちの天候で煙ってしまってよく見えませんが、きれいなマツ山みたいです。
光悦寺の前をさらに進むとホテルがありました。ここの左を進むと道は山に入っていくので引き返しました、そこでホテルの右へ進みました。
そこには北山杉の圃場がありました。低いところで伐って萌芽させたということですね。仁和寺のサクラといい、京都には萌芽の文化があるのでしょうか。
さらに進むと道は山に入っていきました。このあたりの地層は堆積岩みたいですね。このあと道はさらに山に入っていくので引き返すことにしました。
けっきょく光悦寺の前を戻り、T字路の反対側に出て、鷹ヶ峰から降りました。このあたりは西賀茂といいます。
そこで北方向に歩いていきました。東海自然歩道が通っています。
途中山麓には寺院がたくさんあります。ただ、背後の山は鷹ヶ峰のように急傾斜で山麓におりている山でなく、山の下には比較的なだらかな丘陵が広がっています。
そうした緩傾斜面を利用してゴルフ場や墓地が作られています。
ゴルフ場や寺院の写真が続きましたので、ずいぶん市街地を離れたところみたいですが、そのすぐ下は住宅地です。昭和に開かれた地域でしょうか?下の写真は住宅地の中の公園です。クスノキ、ケヤキが大きい。
鴨川が近くなってきましたので、川沿いに降りることにしました。住宅地から下には畑が見られますが、その間を勢いのよい水路が流れています。かなりの水量ですから、鴨川からの取水でしょう。
鴨川に出ました。
鴨川が京都盆地に出る扇の要の位置にある柊野堰堤です。柊野は川の東側。後ろの山は鷹ヶ峰と違ってマツが少なく、雑木率が多いように見えます。枯れたマツの白い幹も散見されます。
鷹ヶ峰や嵯峨野広沢池の背後の山を見たときずいぶんきれいなマツ山と思いました。そうした場所は観光地ですから、景観整備のためマツ林の手入れがしっかりされているのではないか、こちらは観光地ではないので現在普通に見られる近郊林の姿なのではないかと想像しました。
さて、柊野堰堤ですが、やはり大きな農業用水取水口がありました。魚道もついています、同じ構造は反対側にも作られています。
柊野の背後の山の姿です。西賀茂地区と同じく山麓部はなだらかな丘陵地で、田畑が広がっています。
上の写真の続きです。
柊野を潤す水路。さきほどの柊野堰堤から流れているものでしょう。嵐山から来る途中で嵯峨野、宇多野、柊野・・と野の付く土地を通ってきました。宇多野をのぞき灌漑水路が整備されています。思うにこうした土地は古くは原野もしくは放牧地などであったものが、近世近代に入り、水利が充実することによって田畑として利用されるようになったのではないでしょうか。水利の歴史を紐解けばそのあたりの経過はわかると思いますが、ま、ここは想像まで。
柊野の先には山が半島のように突き出ています。山腹の建物は京都産業大。この右側に上賀茂神社があります。上賀茂神社の横のバス停の名称は柊野別れ。そこで柊野は終わるのでしょう。
上賀茂神社に近付きますと、水量豊富な水路が見えました。このまま行くと上賀茂神社の境内の流れに続くもののようです。これも柊野堰堤から来ているのでしょうか?
上賀茂神社に来るとここでもやはりナラ枯れが。木はシイノキのようです。
上賀茂神社境内の小川。この先は上賀茂神社の神体山である背後の山につながっているようです。ただ、、水量がけっこうあるのでほかにも合流している川があるのかもしれません。
右側から来ている川が上の写真の川。前方から合流している川はさきに紹介した街中を流れている水路です。ここで合流して有名な社家の町に続きます。鴨川からの水路は比較的新しいもののはずですから、上賀茂神社の創建時代とは景観が異なっているのではないかと思います。あるいは鴨川からの流れを加えることで元の景観をより力強く演出したのかもしれません。
上賀茂神社の鳥居です。背後の神体山が少し見えますが、常緑広葉樹林が主体の山ではないかと思います。思うに、社寺や庭園の背景・借景の山の姿は創建当時の景観を反映しているという仮説はいかがでしょうか?そういう見方で景観を見ていきたいと思います。さて、上賀茂神社前からはたくさんバスが出ています。これに乗って帰ります。きょうはここまで。
京都のふちつまり盆地のすみ、山にかかる手前のあたりを時計回りに歩いてぐるっと回ることにしました。最初は嵐山から歩き始めて仁和寺まで行ったのですが、写真をあまり撮らなかったので、いずれ紹介することにして、今回はその続き仁和寺~鷹ヶ峰を歩いたコースをふりかえります。といってもあれやこれやを脈絡なく見ていく道程なのでなにかすごい結論が出るとか期待しないでください。(歩いた日2015年2月7日)
出発は嵐電の御室仁和寺駅から。駅からみた仁和寺山門です。
仁和寺山門を入ったところ。緩やかな上りになっています。
有名な御室のサクラです。その正体は・・・。
サクラの根元で切って萌芽させて作った樹形ということですね。
境内の松林は伝統的というか由緒正しい松林の姿。恵瓊さんの絵に出てくる松林の感じですね。
スギ花粉は準備万端。真っ赤です。
奥のお堂は桧皮葺きですが、手前の建物は萱葺きじゃないかな。
仁和寺のハクセキレイ。
仁和寺御室会館のカフェ。土産物屋もありますし、宿坊もあります。
仁和寺~金閣寺までの道はきぬかけの路と名付けられているそうです。
上の看板の下あたりの法面にオオイヌノフグリが咲いていました。
龍安寺に至る途中のマンションに設置されている携帯電話の電波塔(っていうんだっけ)。色を壁と同じにして環境配慮?
道沿いの灌木。ハゼノキと思われます。
龍安寺のサザンカに来たメジロ。このほか道中で見た主な鳥はシジュウカラ、エナガ、コゲラ、ヒヨドリ、イカルなど。
ところで、龍安寺門前は土産物屋や飲食店が少ない。お寺の道路側は植栽やへいが続き、静かな印象。この中はすぐお寺かと思っていたら、一筋お寺側に入ったところに土産物・飲食の店が並んでいる小ストリートがありました。これも景観配慮か。
造園屋さんの資材置き場に立ち並ぶ灯篭群。
道路沿いに多いアベマキの若木。林内に入ると暗くてこうした若木は見当たらない。攪乱の多い林縁こそこうした雑木のふるさとかな。そういえばマント群落という用語。知ってから数十年、これぞマント群落というものを見たことがない。
立命館大の近くで見られるきれいな互層。金閣寺の駐車場のあたりは小石の混じった新しい地層だった。
堂本印象美術館。
美術館の横から脇道に入る。
このあたりアラカシのうどんこ病が多いみたい。株によって症状が出ているもの(白い)と出ていないものがあって、まだら模様。(垣根なので株がまじりあっているが、症状の有無でどこまでがひとつの株かあるていどわかる。)
金閣寺の道沿いから見える切り株。何の木だったんだろう?
同じく金閣寺で先端が切られたマツ。史跡の緑も世代交代の時期か?
同じく金閣寺の道沿い。ここも木が枯れたようだ。景観に配慮した植栽準備中とある。何を植えるんだろう。ウバメガシの若木はありましたが。
上のつづき、昆虫が多いのだろうか?
その続きのあたりの地層。新しい地層みたいです。
鏡石通沿い、「しょうざん」の近く。道路際の水路の中にカワニナがいる。
しょうざん入口の反対側あたり。人の手がかかっているんだと思うけど、いい感じの小川が流れています。〇〇〇出るかな。
その先、道沿いのケヤキ、左側は川。みんな川側に傾いている。よく見ると道路側は伐ってある。
住宅地の中に突然北山杉。私はこの美学はよくわかりません。
北山杉のある地域の東側が鷹が峰。途中がお土居のある地域らしい。
鷹ケ峰につくと、煙ですすけた建物が。有名な醤油屋さんでした、醤油さんの前の土天井バス停で本日は終了。北大路に出て帰りました。北大路のビブレにビゴの店(パン屋)があったのにびっくり。神戸の店とは少し置いてあるものが違っていました。
2014年年末に長野へ小旅行に行きました。
12月は天候が悪いことが多かったのですが、往路は珍しく天気が良く、車窓から雪に白く輝く山の姿を楽しむことができました。特に冬のアルプスがこれほどきれいに見えたことは初めての経験ではないかと思います。
写した山がどの山だったのか、調べてみたのですが、これがけっこうおもしろかったのでブログに紹介してみます。
①伊吹山
これはすぐわかりますね。
②常念岳(左)大天井岳(右)
アルプスの山の遠景をネットで探そうと思ってもあまり多くありません。山のガイドは何冊かもっていますが、遠景の写真というのはほとんどありません。登山中に見られる風景の紹介が中心ですからしかたないですね。この写真は松本近辺での撮影ですので、穂高槍の東側の前山アルプスであることは間違いないので、比較的簡単でした。決め手は常念岳の左側に稲妻型に曲がっている尾根でした。
③爺ガ岳(左)鹿島槍ヶ岳(右)
この写真は松本から長野へ向かう篠ノ井線からのものですが、白馬連山のほうが写せたかなと期待しましたが、白馬の南には杓子岳や鑓ガ岳の特徴のある山が連なっていますから、全く山容が違います。決め手は鹿島槍でした。右側の山が双耳峰であることから鹿島槍を想定して山容を確認し決定しました。そこから左の山は爺ガ岳であることがわかりました。
④飯綱山
この写真は篠ノ井線が山をぬけて長野側に出たところで撮影したものです。はじめ広がる平地は千曲川流域で、奥の高い山は浅間山かと想像しました。しかし、浅間山の火山らしい姿ではありません。また、山腹にスキー場が見られるのもおかしいと思いました。平地の左手に大きな道路が見えます。また、そのすぐそばにはコーラ会社の事業所が見られます。この道路ははじめ高速道路と思っていました。これは違いましたが、この道路が決め手になりました。グーグルのストリートビューで調べると撮影場所は姥捨駅付近とわかりました。しかし、そこから見える風景にこの角度で高速道路は走っていません。大きめの道路はバイパス18号線でした。地図上で確認すると歩道橋も確認できましたし、なによりコーラ会社の事業所がありました。このことから長野市の北にある飯綱山とわかりました。スキー場や山肌に見えるY字の谷も確認できました。