ふち歩きの道すがら、観光になってしまう社寺の拝観はなるべくしないつもりでしたが、清凉寺、仁和寺、上賀茂神社などやはり見ておくべきものも少なからずありました。その中でスルーしたまま気になっていたのが金閣寺でした。
金閣寺の背景の山が道からはよく見えないので、はたしてどのような山なのか気になっていました。そこで、行ってみました。
京福電鉄の北野天満宮駅で降りて、まずは北野天満宮に行きました。境内には御土居があります。ここは梅林になっているらしく、受付があります。有料のようです。
北野天満宮を北に出て、西へ向かいますと、紙屋川を渡ります。けっこう深い谷になっています。川の向かって右側が御土居の位置です。御土居には紙屋川に対する備えの意味もあるのかなと思っていましたが、必ずしもそうではないのかなと思い直しました。ブラタモリの時に言ってたみたいに「都市の外周をはっきりさせる」という意味もあるのでしょう。
さて、歩いて金閣寺まで着きました。コケがまだら模様になっています。これは意図したことなのか?張り替えでこうなってしまったのか?
さて、金閣寺の背景の山です。・・・・・舎利殿(金閣)に注目が集まるので、あまりみんな見てないだろうな・・という感じです。
こちらは西側。高い山は衣笠山でしょうか?広沢池の奥の山とはかなり感じが違います。一部常緑化しています。あまり見えないし、金閣が目立ちすぎてみんな見ていないだろうな・・って感じです。
せっかくなので、金閣の屋根の上にのっている鳳凰像を掲載します。
ところで、金閣の前の池に流れ込む水はどこから?一段高いところに小さな池があります。
その池にはさらに流れ込む水路があります。
水路の途中には水が湧いているところがあります。これは銀河泉。お茶の水にしたのでしょう。
もう一か所巌下水というのも。しかし、この湧水より上からも水が来ています。
そこにはやや大きめの池がありました。
池には水が流れ込んでしますが、これがどこから来ているかはわかりませんでした。もしや井戸?
反対側を見るとさきほどの衣笠山?が良く見えます。やや雑然とした感じの植生ですね。
さて、金閣寺探訪を終えて、金閣寺前から東へ向かう鞍馬口道を歩くことにしました。紙屋川を渡ると道は小さな谷を下る道になりました。この谷を作った川がどこから来たのかはわかりませんでした。
道中は下町的な街を抜ける道で、最近有名になった銭湯船岡温泉もあります。
船岡温泉と似た感じの建物ですが、こちらは飲食店のようです。ほかにもけっこうおもしろそうな店が点在していました。
堀川紫明の交差点からは比叡山も良く見えます。
交差点から右のやや細い道に入り、さらに進むと力餅食堂がありましたのでおはぎをいただきました。
今日の終点は地下鉄鞍馬口駅にしました。
前に嵐山~広沢池まで歩いた時に、嵐山から清凉寺にかけて山から離れたところを歩いていたので、今回は補足的に嵐山の山を歩いてみることにしました。
渡月橋を渡り、対岸の岩田山方向を見ると、山肌になにやら横線が多数。山腹崩壊をくいとめるための工事が施されているようです。
嵐山周辺の地図。何回も地図の上をなぞったため、傷んでいます。
思いがけず近くにイソシギがいました。
嵐山の山といえば小倉山ですが、とりあえずその手前の嵐山公園亀山地区に行きました。アセビが満開です。
嵐山公園の一番奥からは保津川が見えます。有名な旅館も見えています。
右側の山へ向かうことにしましたが、あとで考えるとこれが小倉山だったんですね。
嵐山公園が終わったあたりは、木が伐採されて明るくなっていました。ナラ枯れ対策でしょうか?
キタテハでしょうか。
ビロードツリアブもいました。春先にだけ現れるかわいい昆虫です。
途中はナラ枯れがひどい状態です。これはナラ枯れ対策に加えてシカのツノこすり対策もしています。
小倉山の山頂らしきところにつきました。するとどうしたことでしょう。今まで山道だったのに、ずいぶん立派な道が来ています。
そしてフェンスが張り巡らされた一画があります、中はアカマツ林です。
アカマツ林の再生をめざしているようです。下の写真はフェンスが途切れているところです。右側のフェンス外と比べると密生の度合いが違います。
しかし、舗装路は実に歩きにくい。
やがて、嵐山のドライブウエイに出ました。ウオーキングルートはまっすぐ前の雑木林の中に入り、保津川の落合まで行けるようですが、足元が登山用でなかったのでここで戻りました。
途中で見た見事なウラジロ群落。
途中京都市街を見下ろす素晴らしい展望台がありました。
さきほど、嵐山公園を抜けたところにあった伐採地ですが、ここもシカ対策と松林の育成が行われています。どうやら尾根筋でこうした景観修復が次々おこなわれているみたいです。
そこからも嵯峨野景色が眺められました。
小倉山は古生層でできているということですが、この岩は古生層のものでしょうか?
この波板の向こうは有名な庭園ですが、裏側を通る人間までおもてなししてくれないみたいです。
天竜寺境内でもアカマツ林再生の工事が行われています。
保津峡の舟運を開いたことで有名な角倉了以さんの銅像。
しかし、保津峡の開発に関わったのは角倉了以さんだけではないようです。道昌というお坊さんは保津川の井関を修復したり、舟運にもかかわったそうですもちろん、角倉さんよりもはるか昔の人です。
嵐山公園の案内図。
保津川のセグロセキレイ。
渡月橋から見た嵐山公園亀山地区(下の平たい丘陵)と小倉山。
桜開花もまもなくでした。
今回は、阪急嵐山~嵯峨野広沢池までです。
本来は、これを1回目に紹介すべきだったんですが、事情により今回になりました。
これが歩いた地図のアバウトマップです。
まずは、阪急嵐山駅から桂川に出ます。
桂川に出たあたりは、木津の泉大橋まで続く自転車道のスタート地点です。この日も数人のサイクリストが準備していました。泉大橋のあたりの木津川は昆虫調査で何度も行ったところなんですが、ここから45キロ先というのは結構遠いなあという感じです。
この日(3月8日)はずいぶん水が濁っていました。
渡月橋を渡るとラッキーなことに上空をチョウゲンボウが舞います。尾羽のベルトまで見えました。
渡月橋から上は保津川といい、さらに亀岡市に入ると大堰川(大井川)というそうですが、大きな堰があったのでしょうか?今も渡月橋のすぐ上には大きな堰があります。発電設備もあります。
向かいの山(岩田山など)が良く見えます。全山雑木林が目立ちますね。
渡月橋を渡り、そのまま北へまっすぐ歩きます。観光客が多いですが、JRの踏切を越えるとまばら。閉めた喫茶店などがあります。途中で見た民家。昔は壁にたてかけた床を倒してお店を開いていたんでしょうか。
清凉寺が見えてきました。
山門をくぐり、西を見ると山が見えます。このあたりは常緑化が進んでいるようです。
清凉寺境内には葉の付いた枝やら植物材料がたくさん。松明行事など火を使う行事があるのかな。これも里山の利用のひとつといえましょうか。
境内にはきれいに手入れされたマツが。
近づくと・・・松枯れ対策してますね。しかも有名な製薬会社がかかわっている。
清凉寺の境内を東に出て、さらに北に向かいます。山すそまで出ました。京都の周縁部、山のふもとには必ず新旧とりまぜてお寺や神社があります。平地と山地、あるいは里と山という境界はなにか宗教的な雰囲気を醸すものがあるのかもしれません。
ここで東に向きを変えます。途中で見える山林の姿。
さらに進んで大覚寺に出ました。大沢池は庭園としてよく手入れされて景色も美しいですが、鳥も多かった。
池の中の島にカワウやカモが上がっています。池の中ではオオバンが活躍。ハスが多いためでしょうか。
チュウダイサギ(?)が池の岸辺の中でなにやら餌を探っていました。少し前に来たときはあまり鳥を見ませんでしたが、春が近いのでしょうか。
ところで大覚寺の一画には名古曽滝跡という和歌に詠まれた有名な滝の跡があります。もっとも詠まれた時点ですでに枯れていたという歌があるくらいですから、水が落ちていたのはかなり古い話です。自然の滝が枯れるなんておかしいと思って見に行ったら、自然の滝ではないことを知りました。だいぶ前の話です。次の写真が名古曽滝です。石組のところから水が流れています。
もうすこしバックして全体を見るとこんな感じです。背後の家が見えます。自然の滝のように山から水が落ちている感じではないですね。
じゃ、そもそも名古曽滝はどこから水が来ていたんだということで、前からその背後を見たいと思っていました。・・で行ってみました。こんな感じです。左側の木が生い茂っているところが大沢池のある敷地ですぐそばに名古曽滝があります。右側は一段高くなり、その間を水路が流れています。この水路は名古曽滝にむかってまっすぐ来ているのではなく、直角の方向を向いています。おそらく、名古曽滝のあたりに堰があって、そこでせき止められた水が名古曽滝へと流れているんではないでしょうか?そこまでは行けませんでしたが、そんなふうに想像しました。
この付近は北側の山からの水路が縦横に走っています。つまり、名古曽滝は嵯峨野の水路網を利用して作られた人工の滝ということです。それが庭園が廃れたためか。水路網に変更があったためか。名古曽滝への配水が行われなくなって枯れたということだと思います。そうすると上の写真の水路も1000年以上の歴史がある水路なんでしょうね。
大覚寺から東側は広い農耕地です。このあたりはシカ被害が多いためか。農地周辺は厳重に防鹿柵が巡らされています。
途中の水路にはシジミの殻が。
このあたりの道は千代の古道と呼ばれています。
田んぼに木の枝や収穫済の菜っ葉の切れ端が置いてあります。これから田んぼにすきこむのでしょうか。これも里山的な風景といえそうです。
道はやがて広沢池の前にでました。広沢池の南岸から眺める風景は嵯峨野らしいたおやかな山の姿です。まんなかの山で緑色しているのは上のほうは松ですが、下の方は常緑樹です。それが違和感なくつながっています。松枯れのあと白い枯れ幹を見せる松もありません。かなり念入りに手入れしてあるように思われます。この広沢池ももとは嵯峨野の水路網の一端を担う池です。
このあと宇多野を経由して仁和寺まで歩くつもりでしたが、時間がなく、広沢池の東にある山越バス停からバスに乗って仁和寺まで出ました。この間には宇多野ユースホステルがあったりするんですが、ほとんど街中で見るものはあまりありません。仁和寺からは京福電鉄に乗りました。
京都ふち歩き3回目。
今回は前回の終点上賀茂神社を出発し、東へと向かい京福電鉄の宝ヶ池駅までを歩きます。
上賀茂神社までは、京阪出町柳駅からバスで向かいましたが、上賀茂神社の背景を遠望したいと思い、鴨川のひとつ下流にある上賀茂橋で降りて川沿いに歩きました。そうすると、幸運なことに御土居を発見。この御土居はまさしく鴨川に備えたもので、現在の堤防と平行に作られています。北端で西に曲がっています。ここから北は洛外ということですね。
御土居の北端の横が上賀茂神社にわたる御薗橋。ここから鴨川の上流を眺めると、落差工の上の段は砂州が左右に分かれていますが、その上の段はまんなか、さらにその上は左右と交互になっています。
御薗橋からは上賀茂神社の背後の山が見えます。実はこれを上賀茂神社の神体山と思っていましたが、間違っていたことに気付きました。
これは境内にある立砂(砂できずいた山)の説明ですが、上賀茂神社の神籬(ひもろぎ、神体山のこと)は、ここから北北西2kmにある神山であると説明されています。
立砂のすぐ近くにある手水舎の水は、この神山のくぐり水と説明されています。くぐり水とは湧水ということでしょうか。
では、神山はみえるのでしょうか?鳥居前の案内図の左上に神山の姿が描かれています。
大きくするとこんな感じですが、鳥居越しには木が茂っており見えませんでした。
しかし、駐車場に入る道からは見えました。
拡大してみましょう。
このような説明板も立っています。
前回、柊野堰堤に向かう途中で鴨川の東側に山が見えました。この写真ですが、ここに写っている右側の山のようです。
さて、上賀茂神社の境内には美しい小川が流れています。前回ふれましたが、この川の水のかなりの部分は鴨川から来ています。
そこで見たキセキレイ。谷川の景色のようです。
小川の一部は曲水の宴を行う庭園につながっています。
庭園には大きなスダジイがありました。
小川のつづきは社家の町つまり神主さんがすんでいる町へとつながっています。このあたりは掘割といったほうが良いでしょうか。
この写真の右側に邸内に水を取り入れる口が見えます。
社家の街を流れた小川は藤木社の前で大きく曲がり、南へと流れていきます。
この場所で北の街の中へと進みました。角にある井関家も社家の家ということです。
このあたりを歩いていると、警官が数人あわただしく駆けつけました。なにごとかと思うとどうやらサルが出たようです。
さらに道を曲がって進むと大田神社に出ました。大田神社には有名なカキツバタ群落があります。この神社の前には北大路魯山人の生家跡という石碑が建っていました。
大田神社は賀茂地域で最も古い神社ということです。カキツバタ群落は京都が湖水であった時代の名残でかつてはここも湿地だったとか。思うに中世以後の土木工事で大規模な水利網ができる以前はこうした湿地や湧水が重要な水源であって、そうした重要な場所が聖地として祀られたのではないでしょうか?・・と想像です。
大田神社から東に進むとしゃれたイタリアンの店がある地域をぬけて深泥池(みぞろがいけ)に出ました。ここは有名な天然記念物でミツガシワやカキツバタなどの希少な動植物が見られます。大田神社のカキツバタは現在では水が枯れることもあり、水の補給をしたり肥料をやったりしていると看板に書いてありましたが、この池のカキツバタは完全な野生でしょう。先日京都文化博物館で洛中洛外図を見ましたが、古い図では深泥池も描かれ、カモ猟などをしていたようです。
深泥池からさらに東に行くと宝ヶ池公園の運動施設に出ました。宝ヶ池公園はこの北側の山向こうもそうですが、ここはグランド専用の場所です。背後に五山送り火の「妙」の字の山があります。へんとつくりの間に谷間があります。
さらに進むと道路沿いに水路がありました。
水路は北東方向へ進みます。
住宅地の中でさらに大きな水路に合流しています。
そして高野川につながっていました。
この先は京福電鉄の宝ヶ池駅です。ここできょうは終わりにしました。
鴨川、高野川からの立派な水路にはさまれた大田神社から深泥池にかけての地域は、水路網が整備される以前は大田神社付近の湿地や深泥池からの水利を利用していた地域だったのではないか?それにより古くから人が暮らしてきた。古い社が残されているのはその証拠ではないかと想像しました。
また、上賀茂神社の神体山が神社から遠く離れていることも気になりました。神山は柊野の北端にあたります。もしかすると鴨川からの水利ができる以前は神山の湧水が柊野の水源だったのではないか?と想像しました。はたしてどうでしょうか?
(地図を間違えておりましたので、修正しました。3月9日)
2月28日、今年最初のユニトピアささやま里山・棚田再生活動が行われました。
作業は作業小屋まわりの工事、雑木林の伐採などです。
生物面ではヒキガエルの産卵行動が見られました。
去年、おととしはヒキガエルの卵塊は見ましたが、産卵行動を見たのははじめてです。
人間が近づいたので行動をやめたり、逃げ出したりしたものも見られましたが、しがみついたペアはほとんどそのままでした。作業が終わって人が離れるとコア、コアと鳴き交わします。
オスはメスに迫っていきます。
里山活動をしている隣の谷の湿地ではさらに多く10匹確認しました。
里山活動地のほうは3か所でヒキガエルの卵塊を確認しましたが、ここ最近みかけなかったアカガエルの卵塊も1つだけですが、確認できました。成体を見た人もいたそうです。
これがアカガエルの卵塊です。ゼラチン質がくっつきあうので、一塊になります。
一方、ヒキガエルの卵塊はゼラチン質がくっつかないので、細長いホース状になりますが、なかに黒っぽく細いものがありました。ひからびたものと思いましたが、2枚目のペアが産卵しているようすを見ると産卵直後のものかもしれません。
さて、森林作業のほうですが、ボランティアのみなさんの活躍で、ほぼ伐採も終盤です。
これは1年前の2月22日のようすです。
尾根筋の木は残す予定です。篠山の山の昔の写真を見ると尾根筋の木は残しているところが多い。
アベマキ、アカマツ、シデなどがあります。
伐採地を棚田側からみたようすです。伐採地をさえぎるように木がありますが、ここには道があり、道沿いにアベマキの大木が並んでいます。目印か?はさがけか?用途は不明なのですが、木はまっすぐ伸び、株立ちにはなっておらず、萌芽した形跡はありません。まっすぐ伸びた状態で維持していたのではないかと思います。1本伐採したものの年輪を数えると70年以上ありました。
これがその木ですが、横から萌芽しています。1年目はどうなるかと思いましたが、枝もしっかりしてきました。70年以上の木ですから、萌芽能力はもうないかと思いましたが、無事のようです。更新は萌芽によって可能なようです。
この日は棚田の北側の林にも入ってみました。ここには炭窯跡も見られます。
近くの林の木は多くが過去に伐採を受けて根元から株立ちになっています。薪炭林の名残ということですね。今後の作業地候補です。
ユニトピアささやま内はシカの被食が激しい。現地の担当者に聞きますと、ストロボライト、自動車のエンジン音、人の毛髪、そのほかさまざま試したが、どれも一過性ということです。犬を使うことは施設の性質上安全面の考慮が必要で難しいみたいです。今のところ防鹿柵しか対策はないようです。下の写真はシカがフェンスをくぐったあとです。柵も100%の効果ではないので苦労があります。ほか、イノシシ、サルも現れます。
下の写真は湿地に落ちていたシカの頭骨。
シカの糞塊をたくさん見ました。秋に見たときより多いように思えました。ユニトピアささやまは銃猟禁止なので、猟期には東西の山からここに入り込んでくる動物が多いようです。シカフェンス沿いに歩きながらササなどを食べた跡が空間になっているところがありました。
話はかわって、構内の庭園にある湧水。なにか動くものがいました。小型のサンショウウオの調査もすべきだなと思いました。ユニトピアは両生類の種類が多いのが特徴です。
おわりになぞの木。おかしな突起が出ています。