はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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桔梗の家 5

2018年07月04日 10時06分57秒 | 桔梗の家


さてはて、ぬれねずみのまま出仕するわけにもいかない。
とはいえ、楊の家にて着替えをするのも、安に対しての公平性が失せる気もするし、この界隈に、知り合いがいただろうか、それより、このまま自邸に帰るかな、と迷っていた孔明であるが、つんつんと袖を引っ張られ、顔を向ければ、見覚えのある老爺が、かしこまっている。
「軍師さま、このままではお体が冷えて、お風邪を召してしまいます。どうぞわれらが主人のお屋敷にて、更衣をなさってくださいませ」
それは、趙雲の屋敷にいる家人のひとりであった。
趙雲の屋敷はこのあたりである。
趙雲の屋敷は、広い敷地に立派な厩舎を持ち、馬専用の井戸まで掘らせているのだが、人間の屋敷はちっぽけで、あいも変わらず最低限のものしかそろえていない、質素なしつらえである。
喧嘩をしている、という事情を知らない老爺は、好奇と同情の眼差しをいっぱいに受けている孔明が気の毒でならないらしく、さあ、さあ、と言って、渋る孔明の手を引っ張るようにして、己が主の屋敷へと連れて行く。
そして、目立たぬようにと、裏口から孔明を中へと導いた。





今日は、よく風呂に入る日だな、と思いながら、孔明は、世話好きの老爺が用意してくれた白い簡素な服に身を包む。
一回りほど大きなそれは、どうやら趙雲のものであるらしい。背丈はわずかに高い程度なのに、手足は向こうのほうが長いのだな、武人だからだろうか、などと考えながら、濡れた髪をぬぐっていると、老爺が、へえへえと畏まりながら、やってくる。
そして、
「主はいま、朝の遠駆けに出ておりまして、もうじき戻ってくるかと思います」
という。
顔をあわせるのも気まずいし、かといって、朝から湯を借りておきながら、黙って去るのも礼儀知らず。
さて、困った、と孔明は、老爺に案内されて客間に向かうが、その途中、ちょうど、庭にすこしだけ出っ張った位置にある、典雅な格子状の窓を持つ部屋の、窓辺に置いてある机に目が向いた。
窓辺には、背の高い、濃い紫色の、釣鐘型の花、桔梗が咲いている。
桔梗は、きりりとした風情の花である。
好きなのだろうか。似合うな、と思いつつ、机を見れば、その上には、一幅の書物がひろげられている。
「これは、だれが読んでいるのかね」
「ご主人さまでございます」
ほう、と興味を引かれ、孔明は部屋に入り、書物を見る。
関羽は春秋左氏を好んで読む。子龍もそれに刺激されたのかな、と内容を見て、孔明はおどろいた。
孔明もまだ手に入れていない、許都の学者の、法家のあらたな解釈を述べた書物であった。士大夫のあいだでも、読み応えがあると評判になっているものである。
孔明はつよく興味を引かれ、開かれた書物に、しるしの代わりにと、窓辺に咲いていた桔梗の花を一本取って置いておき、最初から書物を読み始めた。
かねがね読みたいと思っていたものだけに、夢中になって読みふけった。

あまりに夢中になっていたので、いつしか、背後に人が立っているのに、気づかなかった。

「おまえを暗殺するときには、餌の代わりに書物を目の前にぶら提げておけば、難なく首を取れそうだな」
呆れの混ざった声にあわてて振り返れば、趙雲が、部屋の入り口に立っていた。
これは、と気まずく思いつつ、事情を説明しようとする孔明に、趙雲は言った。
「爺さんから事情は聞いた。この部屋は冷える。生乾きの髪のままでいると、風邪を引くぞ」
指摘されて、はじめて孔明は、自分の姿のみっともなさに気が付いた。
借りた服を着たままで、髪は結いもせずに、濡れたまま、ろくに乾かしていない。肩には、垂れる雫を受け止めるために、手ぬぐいを掛けてある状態だ。
不覚。
「すまぬ」
「いや」

気まずい沈黙が流れた。

孔明としては、おのれの不様な格好をともかくなんとかしたいのであるが、沈黙が破れないために、身体を動かすこともできない。
そらぞらしく、世話になったと笑えるほど、趙雲は孔明のなかで軽い存在ではないのだ。そもそも、孔明ほどに、愛想笑いの下手な者はいないだろう。
「その書は」
と、沈黙を破ったのは趙雲であった。
「魏で話題になっていると聞いて、懇意にしている馬商人のつてで手に入れたものだ」
「よく手に入ったな。みなが、これを手に入れようとしているのに」
「運が良かったのだろう。それほどに話題になっているとは知らなかった」
言いながらも、趙雲は、気まずそうに顔をそらす。よほど嫌われたな、と孔明は本人を目の前にして、寂しく思いながら立ち上がろうと膝を浮かせようとしたとき、趙雲の言葉がつづいた。
「いや、いまのは嘘だ」
「嘘?」
孔明は、めずらしい趙雲のことばに、あらためて座りなおす。趙雲は、孔明の正面に座って、腕を組み、気むずかしい顔をして、あれこれと言葉を選んでいる様子だ。辛抱強く待っていると、趙雲はゆっくり言葉をつむいだ。
「嘘というか、俺はいま、北方でいちばん話題になっている書物を数点、手に入れてくれと頼んだのだ。そしたら、それを寄越してきた」
「それは嘘ではないだろう」
「いや、嘘だ」
「なにが嘘なのだ?」
「だから、たまたま読みたかったから、書物を手に入れたわけではない。読む必要があったから、馬商人に無理を言って仕入れてもらったものなのだ」
「馬商人も面食らっただろうよ。書物は走らぬぞ」
孔明の冗談にも、趙雲はすこしも反応せず、むずかしい顔をして、またも言葉を選んでいる。
なんだ、この緊張感は、と孔明が次の言葉を待っていると、ふたたび口が開いた。
「昨日の話なのだが」
「うむ」
「まずは謝る。わけのわからぬことを言った」
「うむ」
「だが」
「だが?」
「おまえもひどい。楊の処分は決めたのか」
なんだ、楊のほうの味方だったのか、と孔明は思いつつ、答えた。
「処分なぞ、なにもない。あれはあれで、暴走する若いのを抑える重要な役目を担っているのだ。それが見えぬ安は愚か者だ。非凡なものが突出するのは仕方ないが、安は度が過ぎる。安は左将軍府より、揚武将軍の元に異動させ、刀筆吏からやり直しをさせるつもりだ」
すると、趙雲は拍子抜けしたように、愁眉をひらいた。
「なぜそれを言わぬ」
「人事のことだからな。決裁をおろすまでは、たとえあなたといえど、教えるわけにはいかぬ」
「そうか…だが、ならばなぜあんなことを言った。俺はてっきり、おまえも、安とやらと同じように考えているのかと思ったのだ」
「わたしは何か言ったか」
「楊は、桔梗からつくる咳止めの薬を作るのがうまい。そこにある桔梗の株も、楊が分けてくれたものだ。調練場では、なにかと声を張り上げるからな、咽喉が嗄れたときには重宝するのだ」
「付き合いがあったのか」
「付き合いがあってもなくても、昨日のあれだけを聞けば、俺は怒った」
「あれって?」
孔明が首をかしげると、趙雲は、深いため息をついて、言った。
「あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが、と」
「それが?」
「つまり、おまえは、年配者には、もう用がないと、安という奴の考えに賛同しているのではないかと思ったのだ」
「いや、それは」
「少しは思ったのだろう。そうでなければ、あの言葉は出ない」
「そうかな」
「そうだ。それを思うと、情けないやら、恐ろしいやらだ。おまえは己がどれだけ非凡か判っておらぬな」
「よくわからぬ」
趙雲は、またもため息をつきつつ、頭を振った。
「つまりだ、おまえは考えたことがなかったかもしれないが、おまえについて行くのは、なかなか骨が折れるのだ。いいか、この場合の付いていくは、単に足が速い、とかいう意味ではないぞ」
「それはわかる」
「おまえについて行くには、あるいは辛うじて肩を並べていられるようにするには、槍や剣だけに頼っているだけではむつかしいのだ」
察しの良い孔明は、その言葉で、机の書物の意味を理解した。
「それで、書を読んでいたのか? わたしのために? なぜにそこまで」
「たわけ。そこまでせねば付き合えぬほどに、おまえの能力は日々向上しているからだ。つまりだ、もっとはっきり言えば、伏したる龍に付き合うためには、凡人の俺では、相当の努力をせねばならぬということだ」
「だれが凡人だって? 謙遜に過ぎるぞ」
「武芸においては堂々と胸を張れるさ。だから将軍職を拝領しておるのだ。だが、文の領域になるとやはり凡人だろう」
「それをいえば、わたしなんぞは武においては凡人以下だ。徴兵に志願しても、断られるだろうな」
「そうだろうな」
「まだ怒っているのか?」
「少し。おまえが、もし安とやらの考えに、いくらかでも賛同しているのであれば、俺の能力がそのうち衰えたら、年だから仕方ないと捨てられるのではと」
「そんなこと、するものか」
「本当か」
「あたりまえだ。だれが、だれを捨てるって? わたしがそのような薄情者だと?」
「そう言うふうに聞こえた」
「いまもまだ、そう思っているのか」
「いいや。まくし立てたあと、莫迦を言ったと思った」
「なんだ、わたしを、やはり信じていてくれたのではないか」
「そういうことか?」
「そうだ。なら、互いに誤解をしていた、というわけだな」
孔明は、体から、潮が引くように、重い気持ちが軽くなっていくのをおぼえた。
なんだ、そういうことだったのか、良かった、わたしの足元は、最初から崩れてなんていなかった。
考えすぎもいいところだ、と安心して、思わず声を立てて笑ってしまう。
それを見て、趙雲もまた、おかしな奴だな、と言いながら、やはり笑った。
「では、こうしよう、子龍、わたしは己の中にある、醜い部分をあなたにさらけだし、不愉快にしたことを詫びる。真摯に反省し、居丈高な考えを改めることを誓おう。二度とそんなことは言わない」
「俺はどうすればいい」
「あなたはわたしを不安にさせたことを詫びる。そして、わたしがまた愚かなことを口にしたら、怒って去るのではなく、諭して欲しい。わたしは、一言一句、洩らさず聞くとも」
「わかった。誓おう」
そうして、また目が合うと、なにやらおかしくなって笑い出す二人であるが、ふと視線を感じ、見れば、趙雲宅の庭先で、ぽかんとしている偉度と陳到が立っていた。
「軍師…もしや」
「もしや? なんだ、偉度、馬車は直ったのか」
「いいえ、お邪魔いたしました。本当にお邪魔でございました。われらは退散いたしますので、つづきをどうぞ」
「つづき? 何を言っている。遅くなったが」
口をぽかんとあけたまま、硬直している陳到を、首根っこをつかまえて引きずるように去ろうとする偉度に、左将軍府へ行くぞ、と言いかけて、孔明は、首をひねる。
「おかしなやつだな。つづきとは何だろう」
見れば、隣の趙雲は顔を険しくして、外に出ようと、身づくろいをしているところであった。
「あなたまでどうした。いまさらあわてても、遅刻は遅刻だぞ」
「ちがう。偉度を追いかける。でなければ、おまえ、明日から往来を歩けなくなるぞ」
「もしや、このひどい格好を言いふらされるとか? それは困る」
「……ともかく、俺は偉度と叔至を追いかける。では、またいずれ」
趙雲は言うと、窓からぱっと庭に飛び降り、そのまま鷹のような素早さでもって、偉度と陳到を追いかけて行った。
そのうしろ姿をぽかんと見送りながら、付いていくのが困難なのは、実はこちらなのではなかろうかと、孔明は、ふと考えた。
そんな孔明をよそに、桔梗は、窓辺で凛とした顔を、太陽に向けていた。



いったんおしまい。
おばか企画・奇矯の家につづく……


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