「将軍も速戦派か」
「速戦でも持久戦でも、どちらでも、それがしは第一功を狙うのみ。ただ、主公の命令に従うだけでござる。あれこれ謀ることについては、それがしは不得手ですからな。さあ、お立ちなされ。せっかくのべべが汚れてしまいましたな」
紅霞は、艶やかな桃色の上衣に、淡い浅葱色の下衣という出で立ちであった。
うずくまっていたので、ちょうど膝のところが丸く砂がついている。
それを片手で払いつつ、紅霞はようやく振り向いて、まともに顔良を見た。
顔良は、調練場で見たときより、さらに近いところにいる姫に、少年のようにどぎまぎした。
姫とのあいだは、一歩もなかった。
ちょっと手を伸ばせば、そのなまめかしい黒髪に手が届きそうであった。
浅黒く健康そうに照っている肌は軽く汗ばみ、その体からは瑞々しい果実のようなにおいがした。
とはいえ、調練場で見たときの、傲岸不遜な姫とは、決定的に様子がちがった。
姫の目には涙がたまり、ほほにはいく筋もその流れた痕がのこっていた。
痛ましい、と顔良はおもった。
その涙を見て、はじめて顔良はわがことのように田豊の逮捕に胸を痛める紅霞の気持ちを理解した。
田豊にまったく非がないわけではない。
かれは、これから意気揚々と出陣しようとする袁紹の軍を阻止し、自分の意見を通そうとした。
その態度は、たしかに恐れを知らぬもので、袁紹に絶対服従をちかっている顔良からすれば、田豊の態度はルール違反もよいところだ。
とはいえ、田豊がまったくまちがっているかというと、そうでもない。
顔良も、持久戦をとなえる者たちの、その論理の利はわかっていた。
曹操は兵力にも兵糧にもとぼしい。
戦場に引っ張り出すことさえできれば、あとは、じわじわと包囲し、干上がっていくのを待っていればよい。
忍耐力を必要とする作戦だが、確実に勝利をものにすることができる。
こちらの損害も最小限に食い止めることができるだろう。
だが、それをわかっていて、袁紹は速戦を選んだのだ。
華々しく曹操を討ち、帝を奪還し、天下に、われ中原を平定せりと高らかに宣言したい。袁紹はそうおもったのだろう。
顔良としては、それならば、最善を尽くすのみなのだ。
田豊からすれば、命がけで訴えれば、袁紹が考えを変えてくれるかもしれないというおもいが、どこかにあったのだろう。
それだけ、田豊と袁紹のあいだにかつては信頼関係があったという証しでもある。
だが、戦は動き出した。
だれにも止めることはできない。
「姫、それがしは、かならずや曹操の首をとって参ります。曹操さえ死ねば、この戦はすぐに手打ちとなるでしょう。さすれば、主公も寛大なおこころがもどられて、牢につないだ田豊どのをおゆるしになるにちがいありませぬ」
「そうであろうか」
「まちがいありませぬ。主公は、本来は慈愛にあふれたお方。いまはちと、血がのぼってしまっておられるのです。冷静になれば、田豊どののいうこともたしかにもっともであった、だが、なにも牢につなぐほどでもなかったと、きっと思い直されるにちがいありませぬ。もしそうでなかったとしても、それがしが、曹操の首とひきかえに、田豊どのの助命嘆願をいたします」
つづく…
「速戦でも持久戦でも、どちらでも、それがしは第一功を狙うのみ。ただ、主公の命令に従うだけでござる。あれこれ謀ることについては、それがしは不得手ですからな。さあ、お立ちなされ。せっかくのべべが汚れてしまいましたな」
紅霞は、艶やかな桃色の上衣に、淡い浅葱色の下衣という出で立ちであった。
うずくまっていたので、ちょうど膝のところが丸く砂がついている。
それを片手で払いつつ、紅霞はようやく振り向いて、まともに顔良を見た。
顔良は、調練場で見たときより、さらに近いところにいる姫に、少年のようにどぎまぎした。
姫とのあいだは、一歩もなかった。
ちょっと手を伸ばせば、そのなまめかしい黒髪に手が届きそうであった。
浅黒く健康そうに照っている肌は軽く汗ばみ、その体からは瑞々しい果実のようなにおいがした。
とはいえ、調練場で見たときの、傲岸不遜な姫とは、決定的に様子がちがった。
姫の目には涙がたまり、ほほにはいく筋もその流れた痕がのこっていた。
痛ましい、と顔良はおもった。
その涙を見て、はじめて顔良はわがことのように田豊の逮捕に胸を痛める紅霞の気持ちを理解した。
田豊にまったく非がないわけではない。
かれは、これから意気揚々と出陣しようとする袁紹の軍を阻止し、自分の意見を通そうとした。
その態度は、たしかに恐れを知らぬもので、袁紹に絶対服従をちかっている顔良からすれば、田豊の態度はルール違反もよいところだ。
とはいえ、田豊がまったくまちがっているかというと、そうでもない。
顔良も、持久戦をとなえる者たちの、その論理の利はわかっていた。
曹操は兵力にも兵糧にもとぼしい。
戦場に引っ張り出すことさえできれば、あとは、じわじわと包囲し、干上がっていくのを待っていればよい。
忍耐力を必要とする作戦だが、確実に勝利をものにすることができる。
こちらの損害も最小限に食い止めることができるだろう。
だが、それをわかっていて、袁紹は速戦を選んだのだ。
華々しく曹操を討ち、帝を奪還し、天下に、われ中原を平定せりと高らかに宣言したい。袁紹はそうおもったのだろう。
顔良としては、それならば、最善を尽くすのみなのだ。
田豊からすれば、命がけで訴えれば、袁紹が考えを変えてくれるかもしれないというおもいが、どこかにあったのだろう。
それだけ、田豊と袁紹のあいだにかつては信頼関係があったという証しでもある。
だが、戦は動き出した。
だれにも止めることはできない。
「姫、それがしは、かならずや曹操の首をとって参ります。曹操さえ死ねば、この戦はすぐに手打ちとなるでしょう。さすれば、主公も寛大なおこころがもどられて、牢につないだ田豊どのをおゆるしになるにちがいありませぬ」
「そうであろうか」
「まちがいありませぬ。主公は、本来は慈愛にあふれたお方。いまはちと、血がのぼってしまっておられるのです。冷静になれば、田豊どののいうこともたしかにもっともであった、だが、なにも牢につなぐほどでもなかったと、きっと思い直されるにちがいありませぬ。もしそうでなかったとしても、それがしが、曹操の首とひきかえに、田豊どのの助命嘆願をいたします」
つづく…