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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首 (二百四十一と二百四十二)
あはれてふことだになくば何をかも 恋の乱れのつかねをにせむ
(二百四十一)
(あゝ愛しいということが、無ければ何を以て、恋心の乱れの束ね緒にしましょうか……あゝ、あはれ、という事がなければ、何をもって、乞い求めの乱れの、収束のおにするのよ)。
言の戯れを知り、言の心を心得て歌を聞きましょう。
「あはれ…感嘆、感動時に発する言葉…いとしい、かわいい、かわいそうなど、その時の感情はさまざま…あゝ、あはれ…山ばの京、絶頂にて発する言葉」「恋…乞い…求め」「みだれ…乱れ…心が千々に乱れること…刈り藻や刈り菰などが喩にされる心の乱れ」「つかねを…束ねる緒…収束する緒…締めくくりをつけるもの」「を…緒…おとこ」。
古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人知らず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、恋心の乱れを辛うじて収束するのは、相手を愛しいと思う心緒(一筋の気持)だという。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、女の乞いの乱れは、「を」に依って、山ばの頂上に送り届けられて、あゝあはれということで、収束(終息)するものよというところ。
世の中は昔よりやはうかりけむ 我が身ひとつのためになれるか
(二百四十二)
(男女の仲は、昔から辛いものだったのだろうか、ではなくて、わたし一人だけの為にそうなったのか……夜の仲は、武樫撚りは憂きものか、ではないでしょう。わたしの身ひとつの為に、それ萎えるか)。
歌の言葉は、俊成のいう「浮言綺語の戯れ」のようなものと知り、言の心を心得て聞きましょう。
「世の中…男女の仲…夜の仲…夜の中」「むかしより…昔より…武樫撚り…強く堅い物に撚りをかけたもの」「むがし…喜ばしい」「やは…反語の意を表す」「うかりけむ…憂かりけむ…辛らかったのだろう…つれなかったのだろう」「なれる…成れる…慣れる…熟れる…萎れる…萎える…よれよれになる」「か…疑いの意を表す…問いの意を表す…問い詰めの意を表しているのかも」。
『伊勢物語』の「むかしをとこありけり」という書き出しの文を、一義ではないという意識をもって、何度も読んでいると、「昔男ありけり」は、やがて「武樫おとこ在りけり」時には「無樫おとこ在りけり」とも聞こえるようになる。その方がこの物語の書きっぷりに相応しいからである。
言葉は使用のされ方から、その意味を心得るしかない。それが、貫之のいう「言の心」である。
古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、世の中の、男女の仲の、辛さを嘆いた。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、浮気な夫のそれの萎えを妻が詰問しているらしいところ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。