帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百七十一と二百七十二)

2012-08-23 00:06:39 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百七十一と二百七十二)


 むら鳥の立ちにし我が名いまさらに ことなしぶともしるしあらめや
                                 
(二百七十一)

 (群がる鳥のように、騒がしく立ってしまった我が恋の噂、今更そんな事無い振りしても、効きめあるだろうかない……群がる女が絶った、我が汝、今更に、何事も無かった振りしても、兆しあるだろうか、そのままだろうなあ)


 言の戯れと言の心

 「鳥…女」「の…比喩を表す…主語を示す」「たちにし…(噂が)立った…絶った…断った…こと尽きた」「な…名…評判…うわさ…汝…親しきものの称…これ…こいつ…おとこ」「しるし…験…(噂否定の)効きめ…(復活の)兆し」「や…反語の意を表す…詠嘆の意を表す」。


 古今和歌集 恋歌三。題しらず、よみ人しらず。男の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、恋の噂が立ってしまった、今更どうしょうもない男の嘆き。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、群がるとりに絶たれたのかな、汝身絶えてしまった。男の嘆き。

 

今の人々に、鳥の「言の心」は女などということを、どのように知らせたらいいのか。唯そうと心得るだけのことで理屈はない。『古事記』を読みましょう。


 八千矛の神が沼河ひめを、よばはむ(求婚せむ…夜這はむ)と、家に至りて、おとめ達(侍女たち)のやすむ所の、板戸を押したり、引いたりされたので、女たちは泣き騒いだ。それは、次のように詠われてある。

青山にぬえ鳥は鳴きぬ、さのつ鳥雉はとよむ、庭つ鳥かけは鳴く、うれたくも(心痛くも)鳴くなる鳥か、この鳥も、うち止めこせね(すぐ止めさせてくれ)」。

そのとき、沼河ひめは、板戸を未だ開かず、内よりお詠いになられた。

 「八千矛の神の命、ぬえ草の女にしあれば、わが心、浦渚の鳥ぞ、今こそは我鳥にあらめ、後は、汝鳥にあらむを、命はな殺せたまひそ」。


 神代に、すでに、鳥の言の心は女であったと心得るしかない。

 


 あしたづの立てる川辺を吹く風に 寄せてはかへらぬ浪かとぞ見る
                                 
(二百七十二)

 (葦鶴が立っている、川辺を吹く風のために、寄せては返らない白浪かと見える……あしき女が絶てる、かは辺を吹く春風により、寄せては繰り返せない汝身かと見る)


 言の戯れと言の心

「あし…葦…悪し」「たづ…鶴…鳥…女」「たてる…(洲に)立っている…(すにより)絶った」「す…洲…女」「かは…川…女」「風…心に吹く風…春風など」「に…のために…により」「なみ…浪…白波…白汝身…絶えたおとこ」「見る…目で見る…思う」「見…覯…まぐあい」。


 古今和歌集 雑歌上。法皇が西川にて「鶴洲に立てり」という題で詠ませられたので、詠んだ男の歌。

 
 歌の清よげな姿は、川の州に立つ鶴の風情。歌は唯それだけではない。それだけでは歌ではない。

 歌の心におかしきところは、あしきとり、すにて汝身を絶てり、というところ。


 心におかしきところが歌の命。この歌は、「あしたづ」に絶たれたのか、「たづ」達を断って入道された法皇ご自身のことを詠んだ歌。お聞きになられた法皇、きっとお笑いになられたでしょう。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。