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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百七十五と二百七十六)
人しれずものを思へば秋の田の 稲葉のそよといふ人もなし
(二百七十五)
(人知れずものを思えば、秋の田の稲葉のように、そよそよと、そうよそうよねえと、言う人もいない……ひとに知られずものの極みを思えば、飽きのたの井な端が、そうよそこよ、と言うひともいない)。
言の戯れと言の心
「人…他人…女」「もの…はっきり言えないこと…あの感の極みなど」「あき…秋…飽き…飽き満ち足りる」「田…女…た…多…多情」「いなば…稲葉…井な端…井の端…女」「い…ゐ…井…女」「の…比喩を表す…主語を示す」「そよ…そよ風にそよぐ音…そうよねと肯定して相槌を打つこと…そこよ…そうよ…感嘆詞」「人…女」。
古今和歌集 恋歌二。題しらず。男の歌。初句「ひとりして」。
歌の清げな姿は、もの寂しい秋に独りもの思うありさま。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、連れたたず先だって独りもの思うのはおとこのさが、和合ならぬありさま。
難波潟おのが袂をかりそめの あまとぞ我はなりぬべらなる
(二百七十六)
(難波潟、自分の袂を濡らし仮染め衣の、海人とだ、我はなってしまったようだ……何は方、おのの手元お、かり初めの吾女とともにぞ、我は成りおえたようだ)。
言の戯れと言の心
「なにはがた…難波潟…何は方…あそこ」「たもと…袂…手元…そこ…これ」「を…対象を示す…お…おとこ」「かりそめ…仮染め…一時だけ…かり初め」「かり…猟…漁…めとり…まぐあい」「あま…海人…吾間…吾女」「と…相手を表す…と共に…一緒に」「ぞ…強調する意を表す」「なりぬ…なってしまった…成りおえた…成就した…感極まり成った」「ぬ…完了した意を表す」。
古今和歌集 雑歌上。「難波にまかれる時よめる」、男の歌。第二句「おふる玉藻の」。
歌の清よげな姿は、難波潟のすばらしい景色の中の人になった気分。歌は唯それだけではない。唯それだけでは歌ではない。
歌の心におかしきところは、かり初めのあまとも和合成ったというおとこの自慢。
藤原俊成の言うように、歌言葉は浮言綺語の戯れのようであるが、そこに、歌の趣旨の「心におかしきところ」が顕れる。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。