帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百七十五と二百七十六)

2012-08-25 00:05:20 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百七十五と二百七十六)


 人しれずものを思へば秋の田の 稲葉のそよといふ人もなし
                                                 
(二百七十五)

 (人知れずものを思えば、秋の田の稲葉のように、そよそよと、そうよそうよねえと、言う人もいない……ひとに知られずものの極みを思えば、飽きのたの井な端が、そうよそこよ、と言うひともいない)。


 言の戯れと言の心
  「人…他人…女」「もの…はっきり言えないこと…あの感の極みなど」「あき…秋…飽き…飽き満ち足りる」「田…女…た…多…多情」「いなば…稲葉…井な端…井の端…女」「い…ゐ…井…女」「の…比喩を表す…主語を示す」「そよ…そよ風にそよぐ音…そうよねと肯定して相槌を打つこと…そこよ…そうよ…感嘆詞」「人…女」。


 古今和歌集 恋歌二。題しらず。男の歌。初句「ひとりして」。


 歌の清げな姿は、もの寂しい秋に独りもの思うありさま。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、連れたたず先だって独りもの思うのはおとこのさが、和合ならぬありさま。

 

 難波潟おのが袂をかりそめの あまとぞ我はなりぬべらなる
                                                 
(二百七十六)

  (難波潟、自分の袂を濡らし仮染め衣の、海人とだ、我はなってしまったようだ……何は方、おのの手元お、かり初めの吾女とともにぞ、我は成りおえたようだ)


 言の戯れと言の心
 「なにはがた…難波潟…何は方…あそこ」「たもと…袂…手元…そこ…これ」「を…対象を示す…お…おとこ」「かりそめ…仮染め…一時だけ…かり初め」「かり…猟…漁…めとり…まぐあい」「あま…海人…吾間…吾女」「と…相手を表す…と共に…一緒に」「ぞ…強調する意を表す」「なりぬ…なってしまった…成りおえた…成就した…感極まり成った」「ぬ…完了した意を表す」。


 古今和歌集 雑歌上。「難波にまかれる時よめる」、男の歌。第二句「おふる玉藻の」。

 
 歌の清よげな姿は、難波潟のすばらしい景色の中の人になった気分。歌は唯それだけではない。唯それだけでは歌ではない。

 歌の心におかしきところは、かり初めのあまとも和合成ったというおとこの自慢。

 


 藤原俊成の言うように、歌言葉は浮言綺語の戯れのようであるが、そこに、歌の趣旨の「心におかしきところ」が顕れる。

 


 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。