帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (二百八十一と二百八十二)

2012-08-29 00:04:02 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百八十一と二百八十二)


 人はいさ我はなき名の惜しければ むかしも今も知らずとをいはむ
                                 
(二百八十一)

 (あの人はどうだか、我は無実の噂が残念なので、昔も今も、あの人のことは、知らないとだなあ、言うだろう……女はさあどうだか、我は亡きものが惜しいので、武樫の時も、そうでない今も、領有していると、おを言うだろう)


 言の戯れと言の心

 「人…噂の相手のひと…相手の女」「なきな…無き名…無実の噂…無き汝…涸れ果てたもの…逝ったおとこ」「な…名…評判…汝…親しきもののこと」「をし…惜し…残念だ…愛着を感じる」「むかし…昔…武樫…強く堅い」「しらず…知らない…(そんな人)聞いたことも見たこともない…しらす…領有しておる…統治しておる」「しる…知る…領る」「を…感嘆、詠嘆の意を表す…お…おとこ」「む…意志を表す」。


 古今和歌集 恋歌三。題しらず。男の歌。


 歌の清げな姿は、立った噂は無実、あの人のことは知らないと言おう、との男の決心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、ひとは無樫ね、無用よと言うかもしれないが、痩せても涸れても我が領有物なのだという男の詠嘆。

 


 我が身から浮名の川と流れつゝ 人のためさへ悲しかるらむ
                                 
(二百八十二)

 (わが身のせいで、浮名が川と流れ続けている、あの人の為にさえ、せつなく心が痛む、どうしてでしょう……わが身のせいで、浮かれた汝が、かはと共に流れ、つつ、君の為にさえ、悲しいのはどうしてかしら)。


 言の戯れと言の心

「浮名…浮かれた噂…浮かれた汝…浮かれたおとこ」「な…汝…親しきもののこと」「川とながれ…川となって流れ…噂の流布する比喩…女と共に流れ…おんなと一緒に流れ」「川…女」「つつ…反復を表す…継続を表す…筒…中空…中身の空しいもの」「かなし…悲しい…せつなく愛しい…せつなく心が痛む」。

 

 古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。第二、三句、「うきよのなかとなづけつゝ」。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、浮名が流れて、わたしが君のためにさえ、どうして心を痛めるの、一心同体だからよ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、浮かれたものが女と共に流れ、空しい筒となっては、女の為だけでなく君の為にさえ悲しいというところ。



 和歌の趣旨は、言の戯れに包まれてある。明らかするには、古今集仮名序の結びの言葉「歌の様式を知り、言の心を心得よ、そうする人は、古の歌を仰ぎ見て、今の歌が恋しくなるだろう」に従って「歌のさま」と「言の心」を学ぶしかない。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。