帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百五十九と二百六十)

2012-08-16 00:01:30 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百五十九と二百六十)

 
 あやなくてまだき浮名は龍田川 わたらで止まむものならなくに
                                 
(二百五十九)

 (わけもなく早々と浮名は、立田川、女の許へ、渡って行かず、止むような恋ではないので……むやみに、その時ではないのに、浮き汝は絶ったかは、わたらず、止められるものではないのでなあ)。


 言の戯れと言の心

「まだき…早くも…その時ではないうちに」「うきな…浮き名…浮いた噂さ…浮き汝…浮かれおとこ」「たつた川…龍田川…川の名…名は戯れる。立つたかは、絶ったかは」「川…女」「かは…だろうか…疑問を表す」「わたる…渡る…女の許へ行く」「なくに…ないのに…ないのになあ」。


 古今和歌集 恋歌三。題しらず。男の歌。第三句、なきなは。


 歌の清げな姿は、早くも浮名が立ってしまったが、恋しい思いは止まない。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、ゆき尽く時ではないのに絶えた、はかないさがの、おとこの自嘲。

 


 天の川くものみをにて早ければ 光とどめず月ぞ流がるゝ
                                  
(二百六十)

 (天の川、雲の筋道であるため早いので、光、留められず、月ぞ流される……あまの川、心雲の身おにて激しいので、照り輝きも留まらず、月人おとこぞ、お流れになる)。


 言の戯れと言の心

 「あま…天…あめ…女」「川…女」「雲…心雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など」「みを…水脈…道筋…筋道…身お…見お…おとこ」「はや…早…速度が速い…強烈…激しい」「光…君の照り輝き…輝くような美しい男の魅力(光源氏の光はこの意味を孕む)」「月…月人壮士…男…おとこ」「ながるる…自然に流れる…川に身が流される(受身を表す)…ものの涙をお流しになられる(尊敬を表す)」。


 古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、雲の流れ早き月夜の風景。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、あまの川から見た、月人おとこのありさま。女のうそぶき。

 

清少納言の言語観は、「枕草子」()に「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」と書いてある。

同じ一つの言葉でも、聞き耳によって意味の異なるもの、それは、経や漢詩など法師と男の言葉、和歌により熟してきた女の言葉であるということ。

即ち、われわれの言葉は全て、字義以外の意味に色々と戯れるので、聞く耳により受け取る意味の異なるものであるという。

 

それでは、意味伝達不能ではないかと思えるが、和歌の場合は、和歌の表現様式を予め知っていること、使用のされ方から、歌言葉の字義以外の意味を、「言の心」として予め心得ていることにより、詠み人と同じ聞き耳を以て歌を聞くことができ、聞き手の耳に、歌の深い心、清げな姿、心におかしきところが、ほぼ同時に伝わる。それは詠み人が心に思っている事である。

これらは、紀貫之と藤原公任の教えることである。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず
  
  
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。