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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百六十一と二百六十二)
綱手ひく響の灘のなのりその 名のり初めでも逢はでやまめや
(二百六十一)
(船の綱引く響の灘の海藻なのりその、名のり初めなくても、逢はずに止められようか、やめられない……引く手あまたの、評判の、娶り難い女が、名のり、汝のり初めてからでも、合わずに止められようか、止められない)。
言の戯れと言の心
「つな…綱…緒…男」「ひく…引く…採る…引きぬく…娶る」「響の灘…風浪高い船の難所の名…名は戯れる。評判の娶るのは難しい女」「灘…浦…江…女」「なのりそ…海藻の名…名は戯れる。なのり磯、名のり女、汝のり女」「藻…海草…女」「磯…岩…渚…女」「な…名…汝…おとこ」「初めでも…初めなくても…初めても…初めたとしても」「あはで…逢わず…合わず…和合せず」「やまめや…止まめや…止められようか…止めるだろうか、やめない」「め…む…推量の意を表す…意志を表す」「や…疑問の意を表す…反語の意を表す」。
古今和歌集の歌ではない。よみ人しらず。
歌の清げな姿は、恋の初めのせつない心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、和合の切なる願い。
今の人々は、海草や藻がなぜ女なのかと問いたくなるでしょう。その問い自体が間違っている。論理的考察には適さない事で、言葉の色々な意味は使用例から、そうと心得るしかない。万葉集の藻に寄せて詠んだ歌を一首聞きましょう。巻第七 譬喩歌 寄藻。女の歌として聞く。
しほ満てば流れ入る磯の草なれや 見らく少なく恋ふらくのおほき
(潮満てば流入する磯の草なのか・わたしは、見ること少なく、恋しいことが多い……しお満てば流れ入る磯の草なのか・わたしは、見ること少なく、乞うことの多い)。
心得るしかない言の戯れと言の心
「しほ…潮…しお…おとこ」「いそ…磯…女」「草…海草…藻…女」「見…覯…媾…まぐあい」「恋…乞い」。
みやこまで響きこゆる唐琴は 浪の緒すげて風ぞ弾きける
(二百六十二)
(都まで、響き聞こえる唐琴は、浪の弦付けて、風が弾いていたことよ……宮こまで、響き渡る空しい歓声は、汝身のお、すげて、心に吹く風が奏でていたのだなあ)。
言の戯れと言の心
「みやこ…都…京…宮こ…極まり至ったところ」「ひびき…音の響き…評判」「からこと…唐琴…土地の名…楽器の名…名は戯れる。空言、嘘言、空事、実は空しい事」「なみのを…浪の緒…汝身のお…おとこ」「すげて…とりつけて…穴に緒を通し付けて」「を…緒…おとこ」「風…心に吹く風…春風など」「ける…けり…詠嘆を表す」。
古今和歌集 雑歌上。唐琴と言ふ所にてよめる、法師の歌。
歌の清げな姿は、唐琴という所の名での遊び。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、空事の絶頂での女の空言を、汝身の緒をすげた女心に吹く風が弾いていたのだというところ。
これらの歌は万葉集の歌とほぼ同じ文脈にある。歌の様も言の心も同じである。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。