帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百七十七と二百七十八)

2012-08-27 01:08:33 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百七十七と二百七十八)


 それをだに思ふこととて我が宿を 見きとな言ひそ人の聞かくに
                                  
(二百七十七)

 (別れを思うからといって、我が宿を見たとも言わないでね、人々が聞いているので……見捨ようなどと思うといって、わがや門を、見たとは言うな、他の男が聞くから)


 言の戯れと言の心

 「それ…代名詞…明示したくない事の代名詞…離別されること…見捨てられること…絶えてしまわれること」「だに…強調する意を表す」「やど…宿…家…女…やと…や門…女」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「な言ひそ…(家を見たと)言うな…家さえ知らないと言え…(や門を見たと)言うな」「人…他の人々…他の男」。


 古今和歌集 恋歌五。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、別れを思う男へ、恋の終わった女の決別の言葉。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、見捨てるおとこへ、や門の悔しさの滲む決別の言葉。


 

 こゝにして我世は経なむすがはらや 伏見の里の荒れまくも惜し
                                  
(二百七十八)

 (此処にきめて、我が余生は過ごしましょう、菅原の伏見の里の荒れゆくのも惜しいし……個々にして、我が夜は過ごしましょう、すが腹や、伏し身の、さ門が荒れそうで惜しい)


 言の戯れと言の心

 「ここ…此処…個々…個人個人」「世…夜」「すがはら…菅原…菅の生えた野原…すが腹…女の腹」「す…洲…巣…女」「原…腹…身」「や…語調を整えるために添える語…疑問や反語の意を表わす…別の意で用いていることを示唆している」「伏見…地名…貴族たちの別荘地…名は戯れる、伏し見、伏し身、伏したままのおとこ」「の…内容を表す…性質、情態を示す」「さと…里…さ門…女」「の…主語を示す」「あれまく…荒れるだろう…(そんなものに見捨てられさ門は)荒廃するでしょう」「も…もう一つ加える意を表す…意味を強める…詠嘆を表す」「をし…惜しい…愛着する…残念だ」。


 古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。

 
 歌の清げな姿は、男の訪れが絶えた女の居住地についての決心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、独り身となった女、伏し身への、さ門の執着、誹謗、詠嘆。


 この歌は、見事に清よげに包まれてあって、本意は玄之又玄なるところにある。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。