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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百六十三と二百六十四)
あふことの渚にしきる浪なれば うらみてのみぞ立ちかヘリける
(二百六十三)
(逢うことのなきさに、頻りに寄る浪なので、浦見るだけで、たち返ったことよ……合うことの無きさに、頻りに寄せる汝身なので、恨みての身ぞ、絶ち帰えったことよ)。
言の戯れと言の心
「あふ…逢う…合う…和合する」「なぎさ…渚…濱と共に、言の心は女…なきさ…無きさ…無きそれ」「さ…それ…そいつ」「しきるなみ…頻る浪…頻繁に寄せては返す浪…しきる汝身…しきるおとこ」「うらみて…浦見て…裏見て…心見て…恨んで」「うら…浦…女…裏…心」「のみ…限定を表す…の身…の見」「たちかへる…立ち帰る…立ち返る…絶ち帰る」「ける…けり…詠嘆」。
古今和歌集 恋歌三。男の歌。
歌の清よげな姿は、渚に寄せる浪を比喩にした、逢えない恋。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、逢えないことを、合えない恨みにかえて、男の憂さ晴らし。
あかずして月のかくるゝ山里は あなたおもてぞ恋しかりける
(二百六十四)
(明けないうちに、月の隠れる山里では、あちらの山面を、恋しがることよ……飽き足りないまま、つき人おとこのお隠れになる山ばのさ門は、彼の方の顔を、恋しく求めているよ)。
言の戯れと言の心
「あかず…明かず…夜が明けず…夜半だというのに…飽かず…飽き満ち足りることなく」「月…月人壮士…突き人おとこ」「山…山ば」「さと…里…女…さ門」「あなた…彼方…あちら側…別の彼の方…あの人」「おもて…面…山面…顔」「恋…乞い…求め」。
古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清よげな姿は、山里での月見、山の彼方に早くも隠れる月を惜しむ情景。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、早くもあえなくお隠れになったつき人おとこに、他の彼のおとこが恋しいというつぶやき、女の憂さ晴らし。
これらの歌の心こそが、古今集仮名序冒頭の「やまと歌は人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中に在る人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思う事を、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出せるなり」ということの正体である。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。