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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首(二百八十三と二百八十四)
あま雲のよそにも人のなりゆくか さすがにめには見ゆるものから
(二百八十三)
(天雲のように、遠くよそよそしくなってゆくか、それでも、女の目には君のことすべて、見えているのよ……お雨降らす心雲が他所でも、女が成りゆくか、でもねえ、女のめには、なおも見得るものなのよ)。
言の戯れと言の心
「あまくも…天雲…遠い…雨雲…おとこ雨降らす心雲」「なりゆく…成り行く…成り逝く」「か…疑問の意を表す」「め…目…女…おんな」「みゆる…見える…見通せる(なぜか、どこの女との浮気か、誰を恨んでいるのか、などすべて)…見得る…見ること可能」「見…覯…媾…まぐあい」「ものから…ものなのよ…ものなのに…物柄…物の性質…おとことは比較にならない持続性、本来的後発性などの性質」。
古今和歌集 恋歌五。詞書によると、住んでいた男が、(或る人を…女を)恨むることありて、しばらくの間、昼は来て、夕方は帰ってばかりしたので、詠んで遣った。女の歌。
歌の清げな姿は、わけあって、夜の床、ご無沙汰となる男へ、妻の呟き。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、浮気のせいで、夜の床なおざりになりゆくおとこへの、妻の憤懣。
伊勢物語(第十九)では、次のように語られてある。
昔をとこ(昔男…武樫おとこ)、宮仕えしていた方で、ごたち(御達…上級女官…後発ち)であった女と知り合ったが、間もなく別れた。仕え所は同じだったので、女の目には見えるのに、男は在るものとも思っていない。女が詠んだ。
間もなく別れた原因は、女がごたち(後発)であったためである。どこの女でも、なおもまたと見得るもの柄なのよ、との女の歌に対して、我がいる山の風はやみなり(わが射る山ばの心風早い為であるな……わが今居る女の山ばの心風速いためであるぞ)と男は返歌している。
いづくにか世をばいとはむ心こそ 野にも山にもまどふべらなれ
(二百八十四)
(何処で、この世を厭い捨てようか、心こそ、野でも山でも何処にあっても、惑うようである……どこで、男と女の夜を、嫌い断とうか、好き心こそ、ひら野でも山ばでも、惑うようである)。
言の戯れと言の心
「世…この世…憂き世…浮き夜…男女の夜」「いとふ…厭う…世を捨て出家する…嫌う」「心こそ…(身もであるが)心が」「野にも山にも…何処でも…山ばでないところでも山ばでも」「まどふ…と惑う…心乱れてわからなくなる」「べらなり…ようである…らしいのである…推量の意を表す」。
古今和歌集 雑歌下。題しらず、法師の歌。
歌の清げな姿は、どこで世を捨てるか、世にあるかぎり、心の惑いは尽きないだろう。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、夜をすてないかぎり、好き心は惑い続けるようであるというところ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。