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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首(二百七十九と二百八十)
潮みてば入りぬる磯の草なれや みるめ少なくこふらくおほし
(二百七十九)
(潮が満ちれば、入ってくる磯の浮草なのかこの恋は、見ること少なく、恋うことが多い……士お満ちれば、入って来る井その、草なのか粗末なおとこ、見るめ少なく、わたしは乞うことが多い)。
言の戯れと言の心
「しほ…潮…しお…士お…子お…おとこ」「いそ…磯…女…井そ…女」「草…浮草…浮かれたもの…粗末なもの…くさ…種…原因となるもの」「みるめ…海藻の名…海松布…名は戯れる。見るめ、逢うめ、合う女、合うめ」「見…覯…覯…まぐあい」「こふらく…恋うこと…こ(ん)ぶ等…昆布など…乞うこと」「らく…名詞化する接尾語」。
古今集の歌ではない。万葉集巻第七 比喩歌 寄藻。第四句「見良久少」。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、潮満ち来た磯の景色。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、見(覯)ることの良しや久しいことが少ないおとこへの、女の憤懣、詠嘆。
このような女の生々しい心が磯の景色や海草で包まれてある。歌はこのように心根をものに包んで表現するもの。そこが詠むにしても聞くにしても難しいところ。
ほととぎすの歌を詠めなかった清少納言が、「包むことさぶらはずは、千の歌なりとも、是よりなむ、出でもうでこまし」と宮に申し上げた(枕草子第九五)。わたしは、包むことが苦手なだけとの正直な言い訳。いつでも、千くらいの言いたいことは胸の内にはあるということ。
思ふどちまどゐせる夜の唐錦 たゝまくをしきものにぞありける
(二百八十)
(思いの同じ者、円座に集いする夜の花やいだ模様、唐錦、裁つときは惜しいものだなあ……相思相愛、まといつく夜の色模様、時が経つのも、絶えるのも惜しいものだなあ)。
言の戯れと言の心
「おもふどち…思いの同じ友だち…相思相愛の二人」「まどゐせる…円居せる…輪になって座っている…まとひせる…まとい付いている…からみ合っている」「唐錦…色彩豊かな模様の織物…濃厚な色模様」「たつ…裁つ…裁断する…中断する…時が経つ…絶つ…絶える」「をし…惜しい…残念だ…愛着が残る…執着を感じる」「ける…けり…気付きや詠嘆の意を表す」。
古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。
歌の清げな姿は、友だち同士の夜の談笑の様子。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、恋人どうしの夜のまといあいの、久しくあれという心情。
この歌も、清よげに包まれてあって、趣旨は玄なるところにある。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。