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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百五十三と二百五十四)
木の間より影のみ見ゆる月草の うつし心はそめてしものを
(二百五十三)
(木の間より影だけ見える月の草のよう、生の心は色に染めていたのに、色変わりする……この間より陰りの身、見える、尽き具さのよう、現に生の男心は初め色に染めていたのになあ)。
言の戯れと言の心
「このま…木の間…此の間…子の間」「間…女」「かげ…影…光…陰…陰り」「みゆ…見ゆ…目に見える…見ている」「見…覯…媾…まぐあい」「月草…草の名…染料…変色しやすい染料…(万葉集では)移ろう、消えるの枕詞」「つきぐさ…月人壮士の具さ…尽き具さ…尽きたおとこ」「の…比喩を表す」「うつし心…夢や幻ではない現実の心…現に生きている心」「そめ…初め…染め」「ものを…のに…のになあ(詠嘆の意を含む)…のに(色情が変わってしまうことよ)」。
古今和歌集の歌ではない。よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、男の心変わりに、女の詠嘆。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、おとこの色情変わりに、この間の詠嘆。
雁のくる峰の朝霧はれずのみ 思ひつきせぬ世の中の憂さ
(二百五十四)
(雁の来る峰の朝霧、晴れはしない、思い尽きない、世の中の憂さ……かりの繰る山ばの峰の浅切り、心晴れやしない、思火尽きない、夜の仲のつらさ)。
言の戯れと言の心
「かり…雁…鳥…女…狩り…あさり…むさぼり」「くる…来る…繰る…繰り返す」「山…山ば」「峰…山の頂…山ばの頂上…京…絶頂」「あさきり…朝霧…朝限り…浅切り」「はれずのみ…晴れやしない…心晴れやしない」「のみ…ばかり…強調する意を表す」「世の中…男女の仲…夜の仲」「うさ…憂さ…苦しさ、厭さ、辛さ…相手の薄情さ、冷淡さ」。
古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、世情のひどさやつらさ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきとろは、山ばの峰でのおとこの浅ぎりによる、女の憂さ。
両歌とも、歌の言葉を一義に聞く限り、表向きの意味さえ、心には伝わらない。ましてや、心におかしきところなど聞こえない。言の戯れを知らず「言の心」など何かも知らない今の人々には「くだらない歌」でしょう、路傍の石の如く捨て置かれてあるでしょう。
当時の心得ある男たちにとっては、女のこの詠嘆は心当たりがあるので、心におかしい。そのような「絶艶之草」を集め並べたのが新撰和歌集である。
「草…起草…草稿…歌の案…想」「草…女」。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。