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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百五十一と二百五十二)
そこひなき淵やはさわぐ山川の 浅き瀬にこそうは波はたて
(二百五十一)
(底なしの淵は、騒がしく流れるかそうではない、山川の浅き瀬にこそ、上辺の波は立つ……底なしの情深き女は、さわぐか、心さわぎなし、山ばとかでの、情浅き背こそ、浮ついた汝身は立つ)。
言の戯れと言の心
「そこひなき…底無しの…心深い…情の深い」「ふち…淵…女」「やは…反語の意を表す」「山…山ば」「川…女…かは…感嘆を含んだ疑問の意を表す」「浅き…心浅い…情浅い」「せ…瀬…背…男」「こそ…強調・指示を表す…子ぞ…おとこぞ」「うはなみ…上波…上辺の波…浮波…浮気な心波…浮気な汝身」「汝身…おとこ」。
古今和歌集 恋歌四。題しらず。法師の歌。第五句(あだ浪はたて)。
歌の清げな姿は、心浅いからこそ、(いたずらに心を波立てるのだ)浮ついた心波は立つのだ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、情浅き背の君にこそ、浮汝身は立つ、というところ。
山里はものさびしかる事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり
(二百五十二)
(都離れた山里は、もの寂しいことはあるけれど、世の厭わしい辛さより、住み良いことよ……山ば下ったさ門は、もの寂しいけれど、夜の満たされぬ辛さよりも、心澄み好かったことよ)。
言の戯れと言の心
「山…山ば」「さと…里…女…さ門」「世…夜」「うき…憂き…辛い…いやだ…思いが満たされない…やりきれない」「すみ…住み…済み…ものごとが済み…澄み…心が澄み」「よかりけり…好かったことよ…夜かりしたことよ」「かり…めとり…あさり…むさぼり…まぐあい」。
古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、山里に隠遁した人の心情。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきとろは、山ば下ったところに済んださ門の心情。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。