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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百五十七と二百五十八)
きみといへば見まれ見ずまれ富士のねの めづらしげなく燃ゆる我が恋
(二百五十七)
(貴女のこといえば、見かけようが見かけまいが富士の峰のように、珍しくもなくいつも燃えている我が恋よ……貴女が君といえば、見ようと見まいと、不二の根が、めづらしくもなく燃える、我が乞いよ)。
言の戯れと言の心
「きみ…君…貴女…貴男」「見…覯…媾…まぐあい」「ふじのね…富士の峰…山の名…名は戯れる。不二の根、二つとないもの、不死の根、山ばのおとこ」「ね…峰…頂上…ものの山ばの頂上…根…おとこ」「の…比喩を表す…主語を示す」「恋…乞い…乞い求め」。
古今和歌集 恋歌四。題しらず。男の歌。
歌の清げな姿は、火山の噴煙のようにいつも燃えている男の恋心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、絶頂で燃えるあがるおとこの乞い求め。
風ふけば沖つ白なみ立田山 夜はにや君がひとり越ゆらむ
(二百五十八)
(風吹けば、難波津の沖に白浪が立つ、龍田山を、夜半によ、君が独り越えるのでしょう、どうして……心に風吹けば、奥の白汝身、絶った山ば、夜は半ばじゃないの、君は独り越えてゆく、どうして)。
言の戯れと言の心
「風…心に吹く風…春の風…飽き風」「おき…沖…置き…奥」「つ…の…津…女」「白浪…白汝身…白けた汝身…白んだおとこ」「龍田山…山の名…名は戯れる。立田山、絶った山ば」「や…詠嘆を表す…疑問を表す」「らむ…でしょうどうして…原因理由を疑問をもって推量する意を表す」。
古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、他の女のもとへ行く夫を送り出した後の、妻の独り言。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、夜毎に半ばで絶つ夫に対する妻の憤懣が、原因理由の詰問となって顕れている。
事情は伊勢物語第二十三に、次のように語られてある。
大和に住む幼馴染が夫婦となって数年経った頃、男は河内の女のもとへ通うようになった。妻は「悪し」と思うような気色もなく送りだすので、男は妻を疑って、河内へ行った振りをして、家の前栽に隠れて、妻の様子を見ていると、「いとようけさうしてうちながめて(とっても丁寧に化粧して、じっと外を眺めて……ひどい怪相して、もの思いに沈んで)」、この歌を詠んだ。聞いた男は、限りなく、かなし(可哀そう…悲しい)と思って、河内の女のもとへは行かなくなった。
この歌を「歌のさま」を知り「言の心」を心得て聞けば、物語のこの場面に相応しいことがわかる。
また、藤原公任「新撰髄脳」に「これは、貫之が歌の本とすべしといひける也(この歌は紀貫之が歌の手本とすべしと言ったのである)」と記すことが理解できる。公任の歌論「優れた歌は、心深く、姿清よげで、心におかしきところがある」にも適っている。
今の人々は、歌の「清げな姿」しか見えていない。貫之や公任の歌論は理解できないので捨て置かれている。「心におかしきところ」を観るには、言語観を根本的に変更して、言の戯れをすべて受け入れなければならないので、論理的思考による正しい唯一の意味の解明を目指す学問には、残念ながら、歌の「心におかしきところ」を観ることはできない。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。