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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首(二百四十五と二百四十六)
恋しきに命をかふるものならば 死にはやすくぞあるべかりける
(二百四十五)
(恋しさに、命を替えられるものならば、死ぬことは、容易なことに違いないわ……乞いすると、命お、交うれるものならば、逝くは、なんと安易なことだったのでしょうね)。
言の戯れと言の心
「こひし…恋し…乞いし…求めし」「に…対象を示す…比喩の基準を示す…原因理由を示す(など多様な意を孕む言葉)」「いのちを…命を…命緒…吾が命のお」「を…(何々)を…緒…長く続くもの…おとこ」「かふる…換る…交換する…交る…交合する」「しに…死に…死ぬこと…逝くこと…おとこが折れ逝くこと」「やすく…安く…易く…安易で」「ぞ…強調する意を表す」。
古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、恋がこんなに苦しいのなら死んだ方がましよ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、もとより一過性の儚いものと知ってか知らずか、おとこのさがを、どうして折れゆくかと難じるところ。
わびぬれば身を浮草の根を絶えて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
(二百四十六)
(困っていれば、わが身を浮草のように根を絶やして、誘い水があれば、流れのままに行ってしまおうと思う……辛抱しきれないので、わが君の身を、浮かれ女が根を絶やして、なお誘うつゆがあれば、いこうと思うわ)。
言の戯れと言の心
「わぶ…困窮する…がっかりする…辛抱しきれなくなる」「浮草…水草…女…根無し草…浮かれ女」「草…女」「根…おとこ」「さそふ水…誘い水…誘うつゆ…誘うおとこ白露」「いなむ…往かん…行こう…(絶頂へ)行こう…逝こう」。
古今和歌集 雑歌下。仮名序で貫之に「言葉巧みで商人が(貴族の)良き衣を来たような人」と評される男が、三河の国の三等官になって、「地方の国を見に(貴女も)出で立ちませんか」と誘ったので、返事として詠んだ。小野小町の歌。
歌の清げな姿は、「わびぬれば」と言う条件付の色よい返事。軽く遊び心のある断りの返歌。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、添えられた妖艶な余情。
ついでながら、もう一首、余情妖艶な小町の歌を聞きましょう。恋歌二。
思ひつつぬればや人のみえつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
(思いながら寝たからかしら、あの人が見えたようなの、夢と知ったら目覚めなかったでしょうに……思いつつ、濡れたのかしら、あの人が見たようなの、夢と知ったら目覚めなかったのに)。
「ぬる…寝る…濡れる」「見…覯…媾…まぐあい」。
これが小町の歌である。この余情妖艶な魅力こそが、小町が伝説的美女となった要因でしょう。
今の人々は、歌の「清げな姿」だけを見せられて久しい。なんと味気ない歌か。
公任の言うように、歌には「心におかしきところ」がある事を知れば、俊成の言うように、歌の趣旨は「浮言綺語の戯れに似た歌言葉に顕れる」。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。