帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百四十五と二百四十六)

2012-08-08 00:03:59 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百四十五と二百四十六)


 恋しきに命をかふるものならば 死にはやすくぞあるべかりける
                                  (二百四十五)

 (恋しさに、命を替えられるものならば、死ぬことは、容易なことに違いないわ……乞いすると、命お、交うれるものならば、逝くは、なんと安易なことだったのでしょうね)。


 言の戯れと言の心

 「こひし…恋し…乞いし…求めし」「に…対象を示す…比喩の基準を示す…原因理由を示す(など多様な意を孕む言葉)」「いのちを…命を…命緒…吾が命のお」「を…(何々)を…緒…長く続くもの…おとこ」「かふる…換る…交換する…交る…交合する」「しに…死に…死ぬこと…逝くこと…おとこが折れ逝くこと」「やすく…安く…易く…安易で」「ぞ…強調する意を表す」。

 

 古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、恋がこんなに苦しいのなら死んだ方がましよ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、もとより一過性の儚いものと知ってか知らずか、おとこのさがを、どうして折れゆくかと難じるところ。

 


 わびぬれば身を浮草の根を絶えて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
                                  (二百四十六)

 (困っていれば、わが身を浮草のように根を絶やして、誘い水があれば、流れのままに行ってしまおうと思う……辛抱しきれないので、わが君の身を、浮かれ女が根を絶やして、なお誘うつゆがあれば、いこうと思うわ)。


 言の戯れと言の心

 「わぶ…困窮する…がっかりする…辛抱しきれなくなる」「浮草…水草…女…根無し草…浮かれ女」「草…女」「根…おとこ」「さそふ水…誘い水…誘うつゆ…誘うおとこ白露」「いなむ…往かん…行こう…(絶頂へ)行こう…逝こう」。

 

古今和歌集 雑歌下。仮名序で貫之に「言葉巧みで商人が(貴族の)良き衣を来たような人」と評される男が、三河の国の三等官になって、「地方の国を見に(貴女も)出で立ちませんか」と誘ったので、返事として詠んだ。小野小町の歌。


 歌の清げな姿は、「わびぬれば」と言う条件付の色よい返事。軽く遊び心のある断りの返歌。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、添えられた妖艶な余情。


 ついでながら、もう一首、余情妖艶な小町の歌を聞きましょう。恋歌二。


 思ひつつぬればや人のみえつらむ 夢と知りせば覚めざらましを

 (思いながら寝たからかしら、あの人が見えたようなの、夢と知ったら目覚めなかったでしょうに……思いつつ、濡れたのかしら、あの人が見たようなの、夢と知ったら目覚めなかったのに)。

 
 「ぬる…寝る…濡れる」「見…覯…媾…まぐあい」。

 
これが小町の歌である。この余情妖艶な魅力こそが、小町が伝説的美女となった要因でしょう。


 今の人々は、歌の「清げな姿」だけを見せられて久しい。なんと味気ない歌か。

 
 公任の言うように、歌には「心におかしきところ」がある事を知れば、俊成の言うように、歌の趣旨は「浮言綺語の戯れに似た歌言葉に顕れる」。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。