帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百五十五と二百五十六)

2012-08-14 00:03:21 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百五十五と二百五十六)


 夕されば宿にふすぶる蚊遣火の いつまで我が身したもえにせむ
                                 
(二百五十五)

 (夕方になれば宿にくすぶる蚊遣火のように、いつまで我が身は密かに思い焦がれるのでしょう……果て方になれば、や門にくすぶる彼遣り火が、いつまで、わが身を下燃えに悩ませるの)。

 
 言の戯れと言の心

 「ゆうされば…夕方になれば…ものの果て方になれば」「やど…宿…女…屋門…女」「かやりび…蚊遣火…彼遣り火…彼を逝かせた思火」「か…蚊…彼…あれ」「やり火…遣り火…ゆかせる火…思いを晴らす火」「の…比喩を表す…主語を示す」「したもえ…下萌え…密かに恋い焦がれる…下燃え…や門が思火に燃える」「せむ…為すのだろう…責む…さいなむ…なやます」。


 古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。初句、夏なれば。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、忍ぶ恋の悩ましさ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、疾しおとこのさがによる下燃え女の憤懣、誹り。


 

 わが心なぐさめかねつ更科や 姨捨山に照る月を見て
                                 
(二百五十六)

 (わたしの心は、慰められなかった、更科の姨捨て山に、美しく輝く月を見ても……わが心、慰められなかった、言い広めないでね、おは見捨てる山ばに、色艶よくほてる月人おとこを見ても)。


 言の戯れと言の心

 「さらしな…更科…地名…名は戯れる。晒しな、人目に晒すな、広めるな、言いふらすな」「をばすて山…姨捨山…山の名…名は戯れる。姨を捨てる山、おは見捨てる山ば、おとこの身の見の限界の山ば」「てる…照る…美しく輝く…色艶よく火照る」「月…月人壮士…尽き人おとこ…突き人おとこ」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

 古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、世の中の憂さは、美しく照る月を見ても慰められない。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、おとこの見捨てる山ばで、なおも火照るつき人おとこを見ても、わが心は、慰撫できないという女の多情。


 歌をこのように聞く耳を持てば、清少納言枕草子の「をかし」を、当時のおとなの女たちと同じように聞くことができる。枕草子第二百五十八。


 「世の中の腹立たしさ、うつとおしさに、世を捨てて何処かへ行ってしまおうかとさえ思う時、ただの白い紙とよき筆を得たならば、こよなく慰められて、このまま生きていようかなと思える…」などと申していると、中宮「いみじくはかなきことにも、慰むなるかな、姨捨山の月はいかなる人の見けるにか(ひどく儚い事で、慰められるのねえ、をば捨てやまの月は、如何なる女が見たのでしょうね)」、など笑わせ給(などとお笑いになられる)。

 

 この笑いが、おとなの笑いであると、今の人々にもわかるでしょう。

 

歌を空読みすれば、枕草子もうわの空読みすることになる。しかも上辺の意味だとは気付かず、包まれた心におかしきところは、永遠に包まれたまま埋もれ木となる。誰も痛みも痒みも感じない。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。