大原幽学(1858年没)は、江戸後期の教育家であるとともに社会運動の実践者です。
幽学は当時の貧しい農民救済のため、今日の産業組合運動の先駆である「先祖(株)組合」を組織しましたが、農民の
結集を恐れた徳川幕府の嫌うところとなり、関係者に迷惑をかけた責任を負って幽学は62歳で自殺しました。
中略
史実に基づき、高倉テル氏は、長編小説を書いていますが、その中提宗和尚と大原幽学との最初の出会いを、次の
ように描写しています。
「何でわしの所へ来た?」
「どう生きたらよいか、わかりませんために」
「これまでは、どう生きてきた?わからんで生きてきたのか?」
「はい」
「わからんでも寝ていては生きられまい?米を食って生きてきただろう?25年の間、米を食って生きてきただろう?
その米は誰が作った?」
「百姓が」
「何という名の百姓だ?」
「・・・・・」
「知らんか?名も知らんでは礼を言ったこともあるまい。25年の間養ってもらって、一言の礼も言った事もあるまい
礼を言うものだとも思っていないのじゃないか?」
「・・・・・」
「そういう恩知らずの人間が、どう生きたらいいか、わからんのと生意気なことが言えると思うか?」
「・・・・・」
「世の中は、すべての人間が助け合って生きているのだ、中略、まず米をとげ!」
中略
「お前の根性がどれだけ腐っているか証拠を見せてやる。ここに1粒の米がある。いまお前が、とぎながら流し元へ
こぼした米だ。1粒の米位と思っているだろう。1粒の米がどれほど大切か教えてやろう」
それから幽学は、寺のソロバンを2つ借りてきて和尚のまえへ置きます。和尚は
「1粒の米が地へ落ちると、その米から24の芽が出て24本の稲となる。1本の稲は秋になると、それぞれ300粒の実を結ぶ
すると、1粒の米はその秋に幾粒の米となる?」
幽学はソロバンを入れた。
「7200粒」
「この7200粒を翌年そのまま蒔いたとすると、その年の秋には幾粒の米となる?」と幽学に計算させます。
続く
幽学は当時の貧しい農民救済のため、今日の産業組合運動の先駆である「先祖(株)組合」を組織しましたが、農民の
結集を恐れた徳川幕府の嫌うところとなり、関係者に迷惑をかけた責任を負って幽学は62歳で自殺しました。
中略
史実に基づき、高倉テル氏は、長編小説を書いていますが、その中提宗和尚と大原幽学との最初の出会いを、次の
ように描写しています。
「何でわしの所へ来た?」
「どう生きたらよいか、わかりませんために」
「これまでは、どう生きてきた?わからんで生きてきたのか?」
「はい」
「わからんでも寝ていては生きられまい?米を食って生きてきただろう?25年の間、米を食って生きてきただろう?
その米は誰が作った?」
「百姓が」
「何という名の百姓だ?」
「・・・・・」
「知らんか?名も知らんでは礼を言ったこともあるまい。25年の間養ってもらって、一言の礼も言った事もあるまい
礼を言うものだとも思っていないのじゃないか?」
「・・・・・」
「そういう恩知らずの人間が、どう生きたらいいか、わからんのと生意気なことが言えると思うか?」
「・・・・・」
「世の中は、すべての人間が助け合って生きているのだ、中略、まず米をとげ!」
中略
「お前の根性がどれだけ腐っているか証拠を見せてやる。ここに1粒の米がある。いまお前が、とぎながら流し元へ
こぼした米だ。1粒の米位と思っているだろう。1粒の米がどれほど大切か教えてやろう」
それから幽学は、寺のソロバンを2つ借りてきて和尚のまえへ置きます。和尚は
「1粒の米が地へ落ちると、その米から24の芽が出て24本の稲となる。1本の稲は秋になると、それぞれ300粒の実を結ぶ
すると、1粒の米はその秋に幾粒の米となる?」
幽学はソロバンを入れた。
「7200粒」
「この7200粒を翌年そのまま蒔いたとすると、その年の秋には幾粒の米となる?」と幽学に計算させます。
続く