もう一つ松原先生のご本より、感動したお話を引用いたします。
私(注:松原泰道先生のこと)が感動したのは、樋口清之先生(国学院大学名誉教授)が
執筆された、やはりお弁当の話で、概要をご紹介しましょう。
私の友人で、貧しさに耐えてよく勉強するのがいました。彼が学問に意欲を
持ったのは、小学校時代持っていったお弁当が動機だったというのです。
彼はある日、やはり母が作る父の弁当をまちがえて持って学校へ行きます。
彼は言う、「オヤジの弁当は軽かったが、オレのは重かった」と、そして彼は
はじめてオヤジの弁当箱にはご飯は半分しか入っておらず、自分のには一杯
入っていたこと。オレの弁当のお菜はメザシだったが、オヤジのは味噌がご飯の
上に載せてあったことを知ったのです。
父と子の弁当箱の内容をいちばんよく知っている母も、父も黙っている。
オヤジは筋肉労働をするのに、子供の分量の半分にしておかずのない弁当を
を持っていく。「これが親というものの愛情なのか」と思うと泣けて、彼はその
弁当がたべられなかったと申します。
そして彼は「あの親たちに将来決して心配はかけまい。よい成績をとろう」と
決心するのです。
樋口先生が紹介されたこのご友人が戦死されたのは悲しいことです。樋口先生はこの
お友達の紹介とともに、、また大切なことを、こう教えてくださいます。
もしも彼の両親が、「お父さんの弁当の中味が少ないが、お前にはちゃんとした
お弁当をつくっている」と言ってしまったのでは何もなりません。両親とも黙って
いるところに、子どもが感動したのではないでしょうか。
(樋口清之「家族の和は”愛”詳意」『るんびにい』241号
思いますのに、神仏は人間に愛や慈悲を与えても決して言挙げ(言葉に出して言いたてること)などしません。言挙げしない事実に感動できて自分の人生を豊かにすることができるのが、人間の持つ能力でありましょう。炊事をするのも仏事なら、感謝の念が生まれるのも仏事です。
以上、松原泰道先生著 『自己を生き抜く』道元の「典座教訓」を読む、より
私(注:松原泰道先生のこと)が感動したのは、樋口清之先生(国学院大学名誉教授)が
執筆された、やはりお弁当の話で、概要をご紹介しましょう。
私の友人で、貧しさに耐えてよく勉強するのがいました。彼が学問に意欲を
持ったのは、小学校時代持っていったお弁当が動機だったというのです。
彼はある日、やはり母が作る父の弁当をまちがえて持って学校へ行きます。
彼は言う、「オヤジの弁当は軽かったが、オレのは重かった」と、そして彼は
はじめてオヤジの弁当箱にはご飯は半分しか入っておらず、自分のには一杯
入っていたこと。オレの弁当のお菜はメザシだったが、オヤジのは味噌がご飯の
上に載せてあったことを知ったのです。
父と子の弁当箱の内容をいちばんよく知っている母も、父も黙っている。
オヤジは筋肉労働をするのに、子供の分量の半分にしておかずのない弁当を
を持っていく。「これが親というものの愛情なのか」と思うと泣けて、彼はその
弁当がたべられなかったと申します。
そして彼は「あの親たちに将来決して心配はかけまい。よい成績をとろう」と
決心するのです。
樋口先生が紹介されたこのご友人が戦死されたのは悲しいことです。樋口先生はこの
お友達の紹介とともに、、また大切なことを、こう教えてくださいます。
もしも彼の両親が、「お父さんの弁当の中味が少ないが、お前にはちゃんとした
お弁当をつくっている」と言ってしまったのでは何もなりません。両親とも黙って
いるところに、子どもが感動したのではないでしょうか。
(樋口清之「家族の和は”愛”詳意」『るんびにい』241号
思いますのに、神仏は人間に愛や慈悲を与えても決して言挙げ(言葉に出して言いたてること)などしません。言挙げしない事実に感動できて自分の人生を豊かにすることができるのが、人間の持つ能力でありましょう。炊事をするのも仏事なら、感謝の念が生まれるのも仏事です。
以上、松原泰道先生著 『自己を生き抜く』道元の「典座教訓」を読む、より