1941年10月12日、支那派遣軍参謀長、後宮淳中将は第23軍に対して香港攻略計画の命を下し、同時に、香港興亜機関に対しても攻略の側面支援計画を命じた。
興亜機関は、陸軍の支那通、岡田芳政中佐が率いた組織であり、その任務は謀略工作によって日本軍の香港攻略を側面から支援することと、香港における情報収集であった。
興亜機関は1941年にその活動を開始したが、その命名の親は、なんと栗林少将であった。
栗林少将は、香港攻略戦当時は第23軍参謀長だった。栗林忠道少将は後に小笠原兵団長・陸軍中将として硫黄島で戦い「散るも悲しき」という有名な電報を発信し、部下に徹底抗戦を命令して自らも文字通り戦って散った。
この香港攻略戦の実施主体は、第23軍であるが、具体的な作戦計画の立案は、大本営作戦部作戦課の瀬島龍三大尉が担当した。
瀬島大尉は、言わずと知れた後の伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏である。
彼は香港攻略戦に際し、緻密な作戦計画を立案する為、三井物産社員を装って香港島の実地の事前偵察を敢行した。
瀬島大尉の作戦課題は、どこから香港を砲撃するのが効果的か?香港島の何処から上陸するべきか?これが難しいようであれば、香港島の裏側(南側)の何処に上陸するべきか?と言う戦術作戦上の判断する為の偵察であった。
瀬島大尉起案による香港攻略戦を側面から支援し日本軍の被害を最小限にするため第23軍からの側面支援に関する興和機関に対する命令は以下であった。
(1)香港攻略の側面支援
①イギリス軍による香港への幹線道路爆破の阻止
②港への道路標識の設置、誘導のための人員の配置
③イギリス軍の兵力移動の妨害
(2)内部撹乱工作
①発電所、電話交換所、水源地、電車庫の破壊
②反イギリス・ビラの配布
③映画館等への爆破テロ
また香港における情報収集は、瀬島大尉の他、現地の地下組織である洪幇を利用して、イギリス軍の陣地や交通の要所、また貯水池の位置とその警備状況などが調べ上げられた。ここで活躍したのが、陸軍の嘱託、阪田誠盛であった。阪田は北京語を自在に操れたため、「田」という中国人になりすまして香港の洪幇に加わった。
興亜機関の最初の任務は、退却するイギリス軍による幹線道路破壊の阻止であった。
事前に押えた十数か所は爆破を阻止できたが、3箇所は爆破されてしまったが、工兵部隊により1時間程度の作業で道路は修復され爆破による影響は最小限に食い止められた。
また興亜機関に協力する洪幇の破壊工作部隊も計画通りに動きインド兵舎、九龍発電所、電車庫、イギリス軍の駐屯地に繋がる水道管の爆破、映画館への手榴弾投げ込みなどを展開した。
しかし興亜機関の最大の香港攻略戦における貢献は、香港の水源そのものを抑えた事である。
水が無くては戦えない。これによりクリスマスの12月25日のグルカ兵を含む英軍降伏を促す要因となった。