今週末、2012年8月24日(金)から26日(日)にかけて311津波に襲われ被災した地域を訪ねる旅をした。人知を超える圧倒的な自然の猛威に、我々は無為であることを、今更ながらに思い知らされている。先人が教えを口伝してくれていたにも係わらず。。。
今回の終末の旅で思い出したのは、御巣鷹の尾根に墜落した日航123便の事だった。津波&地震とは関係ないが、自分の心象光景としては、何ら違和感がないものだった。
311で亡くなられた方々、そして日航123便で死地につかれた方々に、ご冥福を捧げる。(黙祷)
1985年8月12日、大阪・伊丹空港行き日本航空123便が群馬県の高天原山(御巣鷹山)に墜落し、乗客乗員520名が死亡(4人生存)した事故は衝撃だった。
しかも最初に現場に到着したのは米海兵隊のヘリだったのは、日本の危機管理能力欠如を示しているが、何故救助活動をしなかったのは謎だ。多分、日本政府が介入したのだろう。
これは、福島第一原発事故の際にも繰り返された。日本政府は、米国政府の支援を断っている。理解出来ない。
しかし日航123便墜落事故で思い出すのは、合原陸将だ。合原さんは、事故時の第12師団長。中曽根康弘首相の後ろを歩く将官が写っている有名な写真があるが、この将官が合原陸将だ。
第12師団長の前は、北海道北千歳の第1特科団長だった。当時本部中隊に居たので、8時の国旗掲揚の際にはお姿を観ることが出来た。この時期は丁度「M110 203mm自走榴弾砲」のテストが始まった頃で、足回り弱く演習場で停まっている姿を見かける事があった。ライセンス生産している当時の日産の社長が団長に説明とお詫びに来たとも聞いたが、当時の特科団は、装備編成が変わる過渡期にあったのは、間違いない。
特科団長は、陸将補が努める役職であり、団長在任のママ陸将に昇任したのには、関係者は驚いたと思う。
JAL123便に冠しては、様々な意見があり、当方は詳細を知り得ないのでコメント出来ないが、★2つの陸将補から、★3つの陸将に昇任して第12師団長に就任した合原さんは、その真価を発揮したのか?
私見だが、彼は役職を全うしたのだと思う。制服を着ると言う意味を、未経験者は理解不能だと思うが、将官が担う職責は非常に重い。
これについては、彼は墓場まで持って行き、我々に知らしめる事は無いだろ~
今回の終末の旅で思い出したのは、御巣鷹の尾根に墜落した日航123便の事だった。津波&地震とは関係ないが、自分の心象光景としては、何ら違和感がないものだった。
311で亡くなられた方々、そして日航123便で死地につかれた方々に、ご冥福を捧げる。(黙祷)
1985年8月12日、大阪・伊丹空港行き日本航空123便が群馬県の高天原山(御巣鷹山)に墜落し、乗客乗員520名が死亡(4人生存)した事故は衝撃だった。
しかも最初に現場に到着したのは米海兵隊のヘリだったのは、日本の危機管理能力欠如を示しているが、何故救助活動をしなかったのは謎だ。多分、日本政府が介入したのだろう。
これは、福島第一原発事故の際にも繰り返された。日本政府は、米国政府の支援を断っている。理解出来ない。
しかし日航123便墜落事故で思い出すのは、合原陸将だ。合原さんは、事故時の第12師団長。中曽根康弘首相の後ろを歩く将官が写っている有名な写真があるが、この将官が合原陸将だ。
第12師団長の前は、北海道北千歳の第1特科団長だった。当時本部中隊に居たので、8時の国旗掲揚の際にはお姿を観ることが出来た。この時期は丁度「M110 203mm自走榴弾砲」のテストが始まった頃で、足回り弱く演習場で停まっている姿を見かける事があった。ライセンス生産している当時の日産の社長が団長に説明とお詫びに来たとも聞いたが、当時の特科団は、装備編成が変わる過渡期にあったのは、間違いない。
特科団長は、陸将補が努める役職であり、団長在任のママ陸将に昇任したのには、関係者は驚いたと思う。
JAL123便に冠しては、様々な意見があり、当方は詳細を知り得ないのでコメント出来ないが、★2つの陸将補から、★3つの陸将に昇任して第12師団長に就任した合原さんは、その真価を発揮したのか?
私見だが、彼は役職を全うしたのだと思う。制服を着ると言う意味を、未経験者は理解不能だと思うが、将官が担う職責は非常に重い。
これについては、彼は墓場まで持って行き、我々に知らしめる事は無いだろ~