神田明神の境内の奥、銭形平次の碑を通り過ぎると正面に「祖霊社」が鎮座している。実は、分かりにくいのだがこの祖霊社の裏には、「彰忠碑」と「護国慰霊之碑」がヒッソリと建っている。
祖霊社の左壁には、このような案内がある。
思い切って祖霊社の細い脇道を通って行くとそこには巨大な「彰忠碑」が屹立し「護国慰霊之碑」が側に控えている。
「彰忠碑」は、明治40年、日露戦争で戦没した旧神田区出身者の遺勲を称えその名を後世に伝えるために建立された。彰忠碑の文字は、第三軍を率いて203高地・旅順戦を指揮した乃木希典の揮毫だ。二人のご子息は共に戦死されており、明治天皇の死に際し静子夫人と殉死され、乃木家は断絶した。
「護国慰霊之碑」は、大東亜戦争で神田区から出征した軍人の戦没者と、空襲の惨禍を蒙り亡くなられた民間市民を含めた諸霊の慰霊と感謝の誠を捧げるために、昭和51年、保士美会によって建碑された。
護国慰霊之碑に向かい合う形で「戦利記念品之記」が建っている。この碑は、明治41年に建立され、日露戦争においてロシアから得た大砲や砲弾など戦利品が周囲に配されていたと言う。この碑の撰文は、江戸時代の国学者・平田篤胤の曾孫で、神田神社の宮司でもあった平田盛胤氏によるもの。
祖霊社の左壁には、このような案内がある。
思い切って祖霊社の細い脇道を通って行くとそこには巨大な「彰忠碑」が屹立し「護国慰霊之碑」が側に控えている。
「彰忠碑」は、明治40年、日露戦争で戦没した旧神田区出身者の遺勲を称えその名を後世に伝えるために建立された。彰忠碑の文字は、第三軍を率いて203高地・旅順戦を指揮した乃木希典の揮毫だ。二人のご子息は共に戦死されており、明治天皇の死に際し静子夫人と殉死され、乃木家は断絶した。
「護国慰霊之碑」は、大東亜戦争で神田区から出征した軍人の戦没者と、空襲の惨禍を蒙り亡くなられた民間市民を含めた諸霊の慰霊と感謝の誠を捧げるために、昭和51年、保士美会によって建碑された。
護国慰霊之碑に向かい合う形で「戦利記念品之記」が建っている。この碑は、明治41年に建立され、日露戦争においてロシアから得た大砲や砲弾など戦利品が周囲に配されていたと言う。この碑の撰文は、江戸時代の国学者・平田篤胤の曾孫で、神田神社の宮司でもあった平田盛胤氏によるもの。