阿部ブログ

日々思うこと

「鉄砲州“稲荷”神社」 は 「鉄砲州“生成”神社」

2013年06月24日 | 雑感
中央区湊一丁目に「鉄砲州稲荷神社」が鎮座している。しかし、お稲荷様の神社に必ずある赤い鳥居は一切無い。境内を巡っても、摂社の八幡様。奥には富士塚が聳えているが、鉄砲州神社は、お稲荷様をお祀りしていない。
                
鉄砲州稲荷神社のホームページを見ると、お祀りしているのは、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受比売神(とようけめのかみ)、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)とある。成る程、宇迦之御魂神は、稲の神様でお稲荷さんとしても知らている。これで稲荷神社か・・・・・・しかし何か腑に落ちないので、入り口にある御由緒を確認した。
     書いてある内容は↓
『京橋地区の生成並に鉄砲州稲荷神社御由緒
鉄砲州の地は、徳川家康入府の頃は、既に鉄砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遙かに奥まったものであって、八丁堀の掘られたのが慶長十七年であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鉄砲州稲荷神社の生成大神であります。

遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和八年(皇紀千五百一年 西暦八百四十一年)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験あらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。

今の新京橋の近くでありますが所が更にその後年にも埋立が進行して、海岸が東方へ移りましたので、寛永元年には南八丁堀地続きとなった鉄砲州に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鉄砲州御鎮座の八幡神社を摂社とし、以て今日の鉄砲州稲荷神社の基礎を築かれました。
此の時代を通じて江戸で消費する米塩薪炭を始め、大抵の物資は悉くこの鉄砲州の港へ入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鉄砲州に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝戴されています。

抑も此の神札は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基づくものであります。
さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには、各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きる事が出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお陰様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神札であります。』

これで理解出来た。鉄砲州稲荷神社は、鉄砲州生成神社だったのだ。生成大神とは初めて聞く神様だが、その御神徳に感謝を捧げたい。それと特殊神事冬至開運祈願祭に授与される「金銀富貴」の神札は是非頂きたいと思っている。
それと鉄砲州稲荷神社の近くに鉄砲州通りが通っているが、過去ここに稲荷橋があった当時の立柱が残されている。
              
鉄砲州稲荷神社御由緒にもあるとおり、今の湊一丁目、湊二丁目、南高橋を渡った、かつて越前堀と呼ばれた新川の地は、大江戸随一の海の玄関だったのだ。
今では面影は無いが、新川の隅田川テラスに記念碑が建てられている。
               
実は、鉄砲州稲荷神社の境内には「和平神繆斌顕彰碑」が建立されている。繆斌(みょうひん)氏は、蒋介石が日本に派遣した中国人で、最終的に昭和天皇の和平交渉の拒絶により失敗に帰した。これについては、後日書いてみたい。
                

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