自分で自分を見る・・・第三者的に冷静に自分を見ると言えば聞こえが良いのですが、かなり皮肉っぽく見るのですから”客観的”とは違うようです。
私には少しそういう傾向があるようですから、嬉しい時にに喜び、悲しい時には悲しむその後ろ姿を見てしまうので、素直さに欠けると自分では思っています。
つまり、素直でない自分を見ているのです。
試験に合格したり何かに成功したりしても、一見当然のことが起きたと言う顔をするわけですが、実は心の中では誰かに褒めてもらいたいと思っているし、周りの人に話題にしたいと思っているわけで、そういう自分を意識します。
そういういやらしい魂胆を悟られないように一見澄まし顔・・・実はミエミエなのに・・・
逆は、失敗した時なども悔しさをコーティングして、一見「そういうこともあるさ」みたいな顔。
自分の失敗の反動で相手を褒め称えたりもしませんが・・・
ともかくこのあたりは「武士は食わねど高楊枝」みたいなもの。
トータル?すると、淡々と生きているように見えて・・・
実は心の中は騒がしいものがある。
囲碁に関しても概ね似たようなこととなりますが、マアこちらの方は相手への闘志を燃やすと言うより、自分の中に意識が潜っていくようなところが主です。
そうですね、長くザルをやっていると流石にダメな点は本人の責任でしかないと言うことが身に沁みてはいますが・・・。
例えば連敗が続く時とか、短期的にせよ負け数が勝った数の3倍もあるような時は独特の気分もあります。
ネット碁ですから家で打っているのですが、もちろん家族に話したり八つ当たりなどはありえないし、遊びの世界と実生活とは別の世界での出来事みたいな顔をしていますが、実は・・・TVを見ている時も他のことをしている時にも、ふとした場面で負け碁を思い出したりするものです。
ただし、負け碁を糧に成長するようなものであれば、それはそれでたいしたものですが、単に執念深いだけかもしれない。
まさか仕返しを考えるような執念深さではありませんが、それでも負けた碁は決して忘れないみたいなところがあり、且つ人前では・・・マア「猫」みたいに。
こういう時の気分は、自分の心の中を覗いて闇の色を見ている気分ですね。
連敗が始まった頃は、夕方から宵の口の色です。
これは同じ黒い色でも薄墨と言うかどこかに明るさが残っていますが、これが進むともう少しダークになってきます。
例えれば、そうですね子供の頃の田圃道です。
今はその辺りは町並みができていますが、昔は町はずれで裸電球にブリキの丸い笠がついた街灯が電信柱についている程度の明るさ。
まあそれでも明かりがあるだけ良い・・・遠くに人家の窓の明かりも見えるわけですし。
真の闇と言うのもありますね。
昔、山に登った時に経験しました。
雲の厚い日に一人で(周りには誰もいない所)テントを張っている時。
見上げても、周りを見回してもまさに闇しかない。
もしも、明るところが上で暗い闇が底みたいに感じるとすれば、どっちを見ても真の闇の中ですから底の底気分。
ですから、不成績が続くとこの闇を見詰める気分に浸ることになります・・・が、趣味の世界と実生活。
一方で闇の色を見ながら、普通に生活をすることになる・・・これも二重性格的なことでしょうか?。
只今真の闇一歩手前。
私には少しそういう傾向があるようですから、嬉しい時にに喜び、悲しい時には悲しむその後ろ姿を見てしまうので、素直さに欠けると自分では思っています。
つまり、素直でない自分を見ているのです。
試験に合格したり何かに成功したりしても、一見当然のことが起きたと言う顔をするわけですが、実は心の中では誰かに褒めてもらいたいと思っているし、周りの人に話題にしたいと思っているわけで、そういう自分を意識します。
そういういやらしい魂胆を悟られないように一見澄まし顔・・・実はミエミエなのに・・・
逆は、失敗した時なども悔しさをコーティングして、一見「そういうこともあるさ」みたいな顔。
自分の失敗の反動で相手を褒め称えたりもしませんが・・・
ともかくこのあたりは「武士は食わねど高楊枝」みたいなもの。
トータル?すると、淡々と生きているように見えて・・・
実は心の中は騒がしいものがある。
囲碁に関しても概ね似たようなこととなりますが、マアこちらの方は相手への闘志を燃やすと言うより、自分の中に意識が潜っていくようなところが主です。
そうですね、長くザルをやっていると流石にダメな点は本人の責任でしかないと言うことが身に沁みてはいますが・・・。
例えば連敗が続く時とか、短期的にせよ負け数が勝った数の3倍もあるような時は独特の気分もあります。
ネット碁ですから家で打っているのですが、もちろん家族に話したり八つ当たりなどはありえないし、遊びの世界と実生活とは別の世界での出来事みたいな顔をしていますが、実は・・・TVを見ている時も他のことをしている時にも、ふとした場面で負け碁を思い出したりするものです。
ただし、負け碁を糧に成長するようなものであれば、それはそれでたいしたものですが、単に執念深いだけかもしれない。
まさか仕返しを考えるような執念深さではありませんが、それでも負けた碁は決して忘れないみたいなところがあり、且つ人前では・・・マア「猫」みたいに。
こういう時の気分は、自分の心の中を覗いて闇の色を見ている気分ですね。
連敗が始まった頃は、夕方から宵の口の色です。
これは同じ黒い色でも薄墨と言うかどこかに明るさが残っていますが、これが進むともう少しダークになってきます。
例えれば、そうですね子供の頃の田圃道です。
今はその辺りは町並みができていますが、昔は町はずれで裸電球にブリキの丸い笠がついた街灯が電信柱についている程度の明るさ。
まあそれでも明かりがあるだけ良い・・・遠くに人家の窓の明かりも見えるわけですし。
真の闇と言うのもありますね。
昔、山に登った時に経験しました。
雲の厚い日に一人で(周りには誰もいない所)テントを張っている時。
見上げても、周りを見回してもまさに闇しかない。
もしも、明るところが上で暗い闇が底みたいに感じるとすれば、どっちを見ても真の闇の中ですから底の底気分。
ですから、不成績が続くとこの闇を見詰める気分に浸ることになります・・・が、趣味の世界と実生活。
一方で闇の色を見ながら、普通に生活をすることになる・・・これも二重性格的なことでしょうか?。
只今真の闇一歩手前。